ボッシュ・シリーズと音楽 その18

前回は、作者コナリーが「ブラックボックス (The Black Box)」の中で、ボッシュと娘マディ(マデリン)の家庭内エピソードを描きながら、この父娘の特別な絆を浮き上がらせるモチーフとして、アート・ペッパーの音楽を巧みに使っていることをとりあげた。ペッパーこそがそのように本作における音楽の主題ではあるが、コナリーは今回それに加えて、比較的地味と言えるような中堅クラスのジャズ・ミュージシャンを(この表現が当たっているかどうか自信はないが)、バーゲンセールのごとく次々登場させては”PR”しているようにも見えるので、ぜひ触れておきたいと思う。

ブラックボックス(下) (講談社文庫)ブラックボックス(上) (講談社文庫)”PR”に見えると言った理由は、かれらの名前や音楽が、本作のストーリーやプロットとほとんど無関係なかたちで露出しているような感じ、また、作品への味付けとしては念の入れ過ぎのような感じから来ている。作者コナリーがかれらのジャズを心から愛しており、ぜひとも読者に紹介したいと思ったからなのか、または自分自身のジャズに関する蘊蓄を述べたかったのか、あるいは、やや過剰と承知しつつファン・サービスのつもりで書き加えたものなのか、いずれにせよ、コナリーの意図として「お遊び」の域を超えるものではないと思われる。

具体的には、警察内部でジャズ好きとして有名なボッシュが、同じくジャズ好きの同僚の一人とゲーム形式でそれぞれの新たな仕込み(蘊蓄)を自慢し合うという、文字通り「お遊び」の場面として描かれている。二人の内のどちらかが、「相手はきっとまだ知らない」と推理するジャズ・ミュージシャンの名前を挙げ、相手がもし本当に知らなければ「ほーら、俺の勝ちだ」という”オタク同士のゲーム”が進行する。さらに読者によっては、そうした場面に立ち会って自分もゲームに参加している気分になり、読者自身も「相当のジャズ・オタクだな」と感じられる仕掛けになっている。これは、したがって、コナリーの読者に対する「お遊び」でもあるのだ。

「ダニー・グリセット」
ボッシュはその名前に聞き覚えはあったものの、はっきりさせるのに努力が要った。これはボッシュとホロドナクがよくやっているゲームだった。
「ピアノだ」ようやくボッシュは言った。「卜ム・ハレルのグループで演奏しているんじゃなかったっけ?地元のプレイヤーのひとりだ」
ボッシュは自分を誇らしく思った。
「正しくもあり、間違ってもいる。出身はここだが、ずっとニューヨークにいるんだ。しばらく、そっちを拠点にしている。リリーを訪ねてニューヨークにいったとき、〈ジャズ・スタンダード〉で、ハレルといっしょに弾いているのを見た」

Formダニー・グリセット(Danny Grissett)は1975年生まれで、ボッシュより25歳も若いミュージシャンだが、ボッシュの同僚が指摘した通り、2005年からトランぺッターの卜ム・ハレル(こちらはボッシュより4歳年上)が率いる”Tom Harrell Quintet”の正式メンバーとなっている。ボッシュは近頃、「自分のジャズの視野を広げようとし、若い年代のプレイヤーにいくことで娘に興味を持ってもらおうと」努力しており、その甲斐あって同僚の投げた第一球をどうにか打ち返すことができた。しかし、このゲームは、相手の方がつねに一枚も二枚も上手のようである。―― Danny Grissett, ” Let’s Face the Music and Dance” in “Form” (CD)

「グレース・ケリー」ボッシュは言った。「モナコ公妃のほうじゃない」
ホロドナクはボッシュの投げかけてきた挑戦の簡単さに笑い声を上げた。
「公妃じゃない、若いほうのグレースだ。若いアルトサックスのセンセーション。レコードではフィル・ウッズやリー・コニッツとチームを組んでいる。コニッツと組んだやつのほうがいいと思うな。次は?」
ボッシュにはもう一度挑むのは、絶望的に思えた。

Gracefullee韓国系で早熟のスター、グレース・ケリー(Grace Kelly)は1992年生まれである。ボッシュから見れば娘マディよりだいぶ年上ではあるものの同じような世代であり、マディにジャズへの関心を向けさせようと思えば、おすすめミュージシャンの一人と言えないこともない。ボッシュの同僚が言及した”GRACEfulLEE”(2008年)はケリー16歳のアルバムで、高い評価と話題性によりご存知の方も多いだろう。 さて、同僚とのゲームはまだ続いており、ボッシュは一方的な敗色を認めつつも、最後の挑戦を試みる。 ―― Grace Kelly with Lee Konitz, “GRACEfulLEE”(CD)

「わかった、もう一度だな。どう、だろう・・・ゲイリー・スマルヤンは?」
「『隠された財宝』」ホロドナクはすぐさま解答し、ボッシュが考えていたまさにそのアルバムを挙げた。「スマルヤンがバリトンサックスを演奏し、ベースと、ドラムがリズムを刻むだけだ。いいアルバムだ、ハリー、だけど、おれの勝ちだな」
「ああ、いつかは負かしてやる」

Hidden Treasuresゲイリー・スマルヤン(Gary Smulyan)は1956年生まれで、コナリーと同年齢である。バリトンサックス奏者として長い間、名声を得つづけており、2006年からは、マサチューセッツ州サウスハドレーのバークシャーヒルズ音楽アカデミー(the Berkshire Hills Music Academy)で芸術監督を務めている。 ―― Gary Smulyan, “Hidden Treasures”(CD)

Rub & Spare Changeボッシュがその後、同僚とのまじめな仕事およびゲームの両方ともを無事に終えたつもりでいると、その別れ際に、同僚から挨拶代わりの難問が投げかけられる。「マイクル・フォーマンエック」というミュージシャンの名前を挙げられても、ボッシュには答える元気がもはやなく「両手を上げて降参の仕草を」示しながらその場を立ち去るほかなかったのだが、そのボッシュの背中に向けて、ジャズ・オタク度でボッシュに優る同僚からダメ押しの助言が贈られる。 ―― Michael Formanek, ” The Rub and Spare Change”(CD)

Photo by Hreinn Gudlaugsson – Michael Formanek (2014) /CC BY-SA 4.0

このゲームの最後の方で紹介されているゲイリー・スマルヤンと、マイクル・フォーマンエック(Michael Formanek)は、ともに1950年代後半の生まれである。この二人はボッシュより年下だが、作者コナリーにとっては同世代であり、似たような渋い雰囲気のかれらにコナリーがどことなく親近感を抱いていても不思議はない。なお、余談になるが、フォーマンエックはベーシストとして、アートペッパーの「サンフランシスコ・サンバ」(1977年収録)というアルバムにも参加している。 ―― Art Pepper, Michael Formanek, “San Francisco Samba: Live at Keystone Korner”(CD)

「・・・あんたは自分の守備範囲を広げるべきだぞ、ハリー。聴く価値がある人間はみんな死んでる訳じゃない・・・」

San Francisco Samba: Live at Keystone Korner初めから勝負の行方はわかっていた気もするが、ボッシュの負けが潔く確定し、読者としてはかえって安堵したかも知れない。ハリー・ボッシュが ”ジャズ・オタク”としてどれほど進化してもあまり意味はないであろうし、ボッシュには何よりペッパーやフランク・モーガンという拠り所を頑なに守るボッシュでいて欲しい、と思うからである。ただしその一方、このような「お遊び」的要素はコナリー作品の一つの特徴とも言えるので、シリーズの世界観を損なうことのない範囲で、適度に読者を楽しませる分には許されていいであろう、とも筆者は考えている。

ボッシュ・シリーズと音楽 その19 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その17

ブラックボックス(下) (講談社文庫)ブラックボックス(上) (講談社文庫)前作「転落の街 (The Drop)」から再び2年が経過した。「ブラックボックス (The Black Box)」でハリー・ボッシュは62歳となり、その誕生日を、ひとり娘マディがこころづくしの料理とプレゼント、演出で祝うという感動的な場面が淡々と描かれている。作者コナリーとすれば、プロットに関係してもしなくても、そんなことはどうでも良いという方針で挿入しているエピソードであり、筆者もまた、子を持つ親の心境を知るもの同士として作者に同調したい気分である。

ボッシュが帰宅すると「娘は父親のお気に入りのCD5枚をすでにステレオのトレイに載せていた。フランク・モーガンとジョージ・ケーブルズ、アート・ペッパー、ロン・カーター、セロニアス・モンク。・・・」 作中ではこららの内、ケーブルズの「ヘレンの歌 (Helen’s Song)」が紹介されるのみだが、マディの用意したCDのラインアップは一例として、おそらく次のようなものではなかったか。

– Frank Morgan, “Mood Indigo”(CD)
– George Cables, “Helen’s Song” in “Cables Fables”(CD)
– Art Pepper, “Art Pepper Meets The Rhythm Section”(CD)
– Ron Carter, “Dear Miles”(CD)
– Thelonious Monk “Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall”(CD)

Mood IndigoCables FablesMeets the Rhythm SectionDear MilesThelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall

 

 

マディから贈られた1つめのプレゼント(ネクタイ)を見て感嘆の声を上げ、娘をほほ笑ませたボッシュが2つめの包装をほどくと「6枚入りケースに入ったCDが現れた。最近リリースされたアート・ペッパーのライブ録音コレクションだった ・・・」

「アー卜の未亡人がリリースさせたの」
「こんなものが出ていたとは、初耳だ」
「彼女は自分のレーベルを持っているんだよ ―― 〈未亡人の趣味 (Widow’s Taste)〉だって」
ボッシュは複数のCDが入っているケースに目を通した。たくさんの曲が入っていた。
「聴いていいかな?」

さて、この6枚組セットについては実際の商品がなかなか見つからないため、 “Widow’s Taste”レーベルの”Unreleased Art”(未発表アート)シリーズの中から6枚だけチョイスしたものを想像するしかないが、筆者はVol.1~Vol. 3とVol. 4 (もともと3枚組)を合わせたもの、あるいは、Vol.1~Vol. 3とVol.5~Vol. 7を合わせたもの(より嬉しい組み合わせはこちらか?)だろうと勝手に推理している。なお、マディが最初にセットした5枚の内1枚のペッパーは、ボッシュが前から所有し愛聴していたもので、”Unreleased Art”シリーズではあり得ないと思う。

– Vol. 1 – Complete Abashiri Concert – Nov 22, 1981
– Vol. 2 – Last Concert, May 30 ’82 – Kool Jazz Fest
– Vol. 3 – the Croydon Concert – May 14, 1981

Vol. 1-Art Pepper: Unreleased ArtVol. 2-Unreleased Art: the Last ConcertVol. 3-Unreleased Art

 

 

 

 

– Vol. 4 – Unreleased Art, Vol. 4 (The Art History; 3CDs Box set)

Art History Project

– Vol. 5 – Suttgart – May 25, 1981
– Vol. 6 – Complete Live at Ronnie Scott, London 1980
– Vol. 7 – Sankei Hall – Osaka, Japan – Nov 18, 1980

Unreleased Art Vol. 5: StuttgartVol. 6-Blues for the Fisherman: Unreleased Art PepVol. 7-Unreleased Art Pepper

 

 

 

 

Vol. 8 – Live at the Winery, September 6, 1976
Vol. 9 – Live at Donte’s, April 26, 1974

Art Pepper: Unreleased Art VIIIUnreleased Art Vol.9: Art Pepper & Warne Marsh At Donte's: April 26, 1974

 

 

 

 

Photo by Jim Linwood – Fairfield Halls in Croydon, London (2011) /CC BY 2.0

その数日後、ボッシュは贈られたCDの3枚目(上記の”Vol.3″) ― 1981年にロンドンのクロイドンにあるフェアフィールド・ホール(Fairfield Halls)で行なわれたライブ演奏から、「パトリシア (Patricia)」を聴いている。ボッシュは、その「この世のものならぬ」サクソフォンの音色にしばし心を打たれ、曲の由来について娘マディに話しかける・・・

「これは娘のことなんだ」ボッシュは言った。
マデリンが本越しに父親を見た。
「どういう意味?」
「この曲さ。『パトリシア』。アートは、娘のためにこの曲を書いたんだ。娘の人生の長い期間、アートは彼女から離れていたんだが、娘を愛しており、娘と会えないのを悲しんでいた。それがこの曲から聞こえるとは思わないか?」
マデリンは少し考えてから、うなずいた。
「そうだね。サクソフォンが泣いているみたいに聞こえる」
ボッシュはうなずき返した。

Straight Life: The Story Of Art Pepperボッシュのジャズに対する愛情はご承知の通りだが、とくにペッパーに対しては、音楽以外の要素を含めて尋常ならざる思いを抱き続けている。その一端がここにもよく描かれており、かれの心中において自分たちとペッパー父娘が二重写しとなっている。ボッシュは、かつてまだ娘マディの存在を知らない頃にも、ペッパーへの思いをある友人に語っているのだが、その中にはたとえば、母親がペッパーの出演するジャズクラブに出入りし、ペッパーのレコードを何枚も所有していたこと、また、少年のボッシュ自身、ペッパーが自分の父親かも知れないと空想していたことや、後年ペッパーの自伝(ストレート・ライフ; Straight Life)を読んだことなどが含まれていた(「ボッシュ・シリーズと音楽 その7」参照)。 本作「ブラックボックス」では、その自伝についても、かれが「最初から最後まで読んだ最後の本」として再び紹介されている。

さて、ここまですでに、アート・ペッパーを中心とする盛りだくさんの音楽で溢れ返ってしまったため、積み残しについては、次回にご紹介ということでお許しいただきたい。

ボッシュ・シリーズと音楽 その18 につづく。

ブラックボックス The Black Box その2

シリーズを読み通してこられた読者ならよくご承知の通り、ハリー・ボッシュの周辺では公私を問わず、というか公私が錯綜するかたちで、多くの女性が現れては去り、また現れては去っていくという場面が繰り返されてきた。ボッシュがなぜそれほどモテるのかを考えてみたが、主人公という特権的な立場にあることを除くと、よくわからない。ボッシュという人物は、外見はまずまずとしても性格は屈折しており、会話上手とはいえず、女性に対してとくに献身的ということころもなく、つまりジェームズ・ボンドのようなタイプでは絶対にない。しいて言えば、「孤高の一匹狼」というキャラクターが相手を警戒させながらも、ある種の磁力で逆に人を引きつけるのかも知れない。あるいは、ボッシュのもっと不思議なところは、事件解決のためという大義名分は常にあるにせよ、一匹狼タイプのわりにいつも誰か(とくに女性)に助けを求めるケースが多く、すると求められた相手の方は母性に似た保護本能のような部分で反応してしまう、といったパターンが見える気もするのだが・・・。

それはさておいて主題である女性たちの話題に戻ると、本作の事件がらみでは、公私の混在した不明朗な動機からボッシュの捜査を助ける女性がまずは二人登場する。そのうちの一人は、準レギュラーとなっているおなじみのFBI捜査官、レイチェル・ウォリングである。彼女がボッシュと交錯するのは、ミッキー・ハラーが担当したある事件の再審裁判以来、2年ぶりということになる(「判決破棄 リンカーン弁護士;The Reversal」を参照)。レイチェルは今回、まさに上で述べたようなパターンでボッシュを助ける。

デジャヴ [Blu-ray]二人めは、彼女の友人でスーザン・ウィンゴ(Susan Wingo)といい、ATF(Bureau of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives; 本作では”アルコール・タバコ・火器局”)の分析官という仕事に就いている。ATFは銃火器規制の一環として、犯罪に使われた銃を追跡する弾道照合ネットワークも管轄しており、今回のような事件の解決には欠かせない存在といえるだろう。本作では、彼女とボッシュとの短いが印象的なシーンが描かれている。なお、いつもの蛇足で恐縮だが、筆者はデンゼル・ワシントンがATF捜査官を演じた「デジャヴ(Déjà Vu)」という映画作品を思い出してしまった。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

公私の「公」で本作に初登場するのは、LAPDのPSB(Professional Standards Bureau;職業倫理局)に所属する刑事ナンシー・メンデンホール(Nancy Mendenhall)である。PSBは、本シリーズに度々出てきてはボッシュを悩ませたIAD(Internal Affairs Division;内務部または内務監査課)の後継となる組織であり、これもシリーズではおなじみのブラッドベリー・ビルにオフィスを構え、今回も、審問のためにボッシュらをそこに呼びつける場面が描かれている。ボッシュは初対面の印象として、メンデンホールが「愛矯があるとは言えないが、率直なほほ笑みを浮かべた小柄な女性だった」ので、逆に警戒心を起こす。彼女にはさりげなさと同時に、何かを含むような謎めいた部分がどことなく感じられ、練達の読者もボッシュのように幻惑されてしまうかも知れない。彼女は、本作以降の作品にも、引き続き登場することが伝えられている。

Photo by Frank Schulenburg – San Quentin State Prison, Marin County, California (2017) /CC BY-SA 4.0

次に、ボッシュの「私」生活に視線を転じると、前作(転落の街;The Drop)で初登場した医師ハンナ・ストーン(Dr. Hannah Stone)との交際がどうやら続いているようである。野次馬としては「その後どうなったか」と思っていたが、大人同士の男女としてごく普通の範囲と言えばそれまでだが、順調なようでもあり、また微妙な距離感を生じつつあるようにも見える。ボッシュは今回、捜査のためにサン・クエンティン州立刑務所(San Quentin State Prison)を訪れ、そのついでに収監中のハンナの息子に面会するのだが、その何げなく挿入された小さなエピソードが、後々、ボッシュの「公・私」双方に思わぬ波紋を広げていく・・・というあたりは、コナリーらしい手慣れた展開と言えなくもないだろう。ただ、少し気になるボッシュとストーンの関係がこれから先、どこに向かうのかは、読者としてじっと見守っていくほかない。

このように、あらためてボッシュの周辺を彩る女性たちを眺めてみれば、彼女らに概ね共通する要素があることに気付くだろう。それは、彼女たちが職業キャリア的に、また人格・識見において本シリーズに登場する他の主要人物に引けを取らないどころか、いずれも女性という不利な立場を乗り越えて、非常にしっかりと「自立」していることである。また、さらに付け加えるならば、(ひょっとすると、女性につい肩入れしたくなる筆者の妄想に過ぎないかも知れないが)彼女たちはみな、自立した人間に特有の「美しい強さ(あるいは、強さを兼ね備えた美しさ)」を放っている、と言えないだろうか。足腰に不安を覚えるようになった60代の主人公ボッシュに対し、女性たちが頼もしい支援を与え、ときには手強い相手を務めたりするという構図を見ると、テーマの一つが「老刑事と女たち」に変化したと思えるほどである。

The Catcher in the Ryeさて、ボッシュにとって事件解決よりも重要なことがあるとすれば、それは娘マデリン(マディ)と過ごす日常の時間そのものに他ならない。本作では、そのことをますます色濃く打ち出そうとしている作者コナリーの”決意”のようなものが感じられる。マデリンはいまや完全にボッシュの人生の一部、というよりも大半を占めるようになっている。普通の親にとっては当たりまえの、子どもに対する責任やささいな心配事などが、本筋とはまったく無関係にこれほどまで重大な事柄として描かれるということは、この種の小説としては異例と言ってもいいだろう。親でもある主人公が、事件に巻き込まれた娘を必死の思いで救い出そうとするといった”平凡な”ストーリーは世の中にいくらもあり、本シリーズでも「ナイン・ドラゴンズ (Nine Dragons)」がまさにその筋書きを踏襲したものであったが、その時点を境にしてハリー・ボッシュの人生が劇的に転換したことが、本作でも、父娘の日常描写を通じ、あらためて強調されているのである。

ひとつの典型的な場面を再現してみたい。マデリンが、本好きなら誰もが知っている「キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)」を読んでいる。そこに、ボッシュが話しかける・・・

「あのさ、パパはちょっと彼みたいなんだよ」マデリンが言った。
「ほんとか?その本の主人公の少年がか?」
「ミスター・モールが言うには、この本は純真について書かれたものだって。主人公は幼い子どもたちが崖から落ちるまえにつかまえたいと願っている。それは純真さが失われるというメタファーなんだって。主人公は、実際の世界の現実を知っており、子どもたちがそれに直面しなければならなくなるのを止めたがっている」 (中略)

「そうだな」ボッシュは言った。「おれは崖から子どもたちが落ちてからやってくる人間だとは思わないか?殺人事件を捜査しているのだから」
「うん、でも、その似たところが殺人事件の捜査をしたいと思わせているんだよ」 マデリンは言った。「パパは子どものころいろんなものを奪われた。それがパパに警察官になりたいと思わせたんだと思う」
ボッシュは黙りこんだ。

感受性ゆたかな少女が垣間見せる深い洞察に、フィクションだとわかっていても感動を覚えざるを得ない。ボッシュは、自分と同じように娘もまた「子どものころにいろんなものを奪われた」ことに心を痛め続け、その娘を何とか応援したいと頑張っている。同じ親世代の読者としては、ボッシュがそのように普通の親になり切ろうと奮闘すること自体が、かれにとって至上の幸せであることをよく理解できるので、たとえ小説全体の3分の1ほどがホームドラマになってしまっても、それはそれで容認せざるを得ないだろう。また、そのことに加え、これから先は一作ごとに、ボッシュの年齢がますます気掛かりとなっていくことも確実であり、そうした諸々の要素から、近い将来、本シリーズが成立しなくなるような事態さえも、残念ではあるが覚悟しておく必要があるのかも知れない。

ただ、筆者にはファンとして、コナリーに対しクレームしたいことが一つだけある。それは、父娘の微笑ましい日常の中に、妻であり母であったエレノア・ウィッシュの面影が見当たらないことである。父娘の「いまこの瞬間の幸せ」に集中したい気分も理解できるが、その父娘が「いまある」のはエレノアの存在あってのことだし、最も近い肉親の喪失記憶をこのように薄めてしまっているコナリーの描き振りには、必ずしも同意できない。マデリンがいつの日か独り立ちし、颯爽とした主人公になる時がやって来るのかも知れないが、その時になってやっと回想やトラウマとしてエレノアを登場させるという扱いは無神経であり、父娘が幸せになればなるほど、その陰で忘れられがちとなるエレノアの存在はあまりに哀し過ぎるのではないか。はたして皆さんは、どのようにお感じであろうか?

Photo by Kafziel – The Great Mausoleum at Forest Lawn in Glendale, CA (2009) /CC BY-SA 3.0

さて、あとは余談であるが、本作から「フォレスト・ローン墓地 (Forest Lawn Memorial Park, Glendale)」というハリー・ボッシュ・ツアーの新名所をとりあげておきたい。そこには、クラーク・ゲーブルやウォルト・ディズニーなどの多くの有名人に交じって、ボッシュの実父(J・マイクル・ハラー;J. Michael Haller)の墓があり、本作では仕事がらみでボッシュが訪れる場面が描かれている。

The Modesto Arch in Modesto, north central California. The slogan is the city’s motto: “Water, wealth, contentment, health”

また、今回はめずらしく、事件がLAからかなり離れた場所で完結するのだが、その土地もご紹介しておきたい。カリフォルニア州の中央部やや北寄りに位置するスタニスラウス郡(Stanislaus County, California)という地方で、コナリーがその場所を選択した必然的理由については、ぜひ本文でお確かめいただきたい。

 




ブラックボックス The Black Box その1

2,000 California Army National Guardsmen patrolled the city to enforce the law in the 1992 Los Angeles riots.

2012年、ハリー・ボッシュのいるRHDの未解決事件班(the Open-Unsolved Unit)は、1992年のロサンジェルス暴動20周年の一環として、その時からの未解決殺人事件をすべて再調査するよう命じられる。ボッシュには当時、状況のせいで十分な捜査を行うことができず長い間心中でやましさを感じていた一つの事件があったが、20年が経ち、ようやく再捜査のチャンスが訪れたのである。混乱の最中に射殺された犠牲者はひとりの外国人女性で、ボッシュは彼女を白雪姫(Snow White)として記憶していた。なお、原著が出版されたのは描かれた事件とリアルタイムの2012年であり、コナリーの処女作出版(ナイトホークス; The Black Echo, 1992)からも数えて20周年にあたる。(ロサンジェルス暴動については「ボッシュの履歴書(3)」を参照)

M9 pistol, a military spec Beretta 92FS

ボッシュは、飛行機の墜落を調べる調査官のように、事件の核心に近づくための「ブラックボックス」を探し、事件現場で回収された9mmの薬莢が一つの突破口になり得ると考える。その検証技術やデータベースは20年の間に進化しており、薬莢は2件の殺人事件で使用された”ベレッタ92”の発射痕と一致した。その事実は、犠牲者の死が、暴動下で偶然もたらされた暴力によってではなく、何らかの背景や計画性をもった故意による死という可能性を示しており、ボッシュの長年抱き続けた疑問に一つの確証を与えるものだった。ここからのボッシュは、「犠牲者を代弁して、復讐を遂げずにはおかない」あのハリー・ボッシュが健在であることを読者に誇示しながら、一歩また一歩と容疑者に迫っていくのである。

リーサル・ウェポン2 炎の約束 [Blu-ray]ダイ・ハード [Blu-ray]ハリー・ボッシュシリーズではふつう、銃器に関するマニアックな記述はほとんど現れないのだが、本作に限っては、凶器となった拳銃が題材の一つになっている。”ベレッタ92”(the Beretta 92)は、アメリカ軍(やその他多くの軍隊)の制式拳銃であり、法執行機関でも制式採用しているところが多いことから、警察や犯罪ジャンルの小説・映画によく登場することでも知られている。たとえば、「ダイ・ハード」シリーズのジョン・マクレーン警部補(ブルース・ウィリス)や、「リーサル・ウェポン」シリーズのマーティン・リッグス刑事(メル・ギブソン)が持っていた拳銃もベレッタ92である。つまり、このモデルは膨大な数が世界中に流通し、使われた犯罪件数も膨大という背景があり、本作に出てくるような弾道照合が捜査手段としていかに有効かということが理解できる。また、本作では、その他の科学的な捜査技術や、パートナーのディヴィッド・チューがやってみせる、素人にもできそうなネット捜査等についても面白く読めるだろう。

本作における興味深いもう一つの特徴は、犠牲者のプロフィールである。彼女は、デンマークの実在する日刊紙ベアリンスケ・ティズネ(Berlingske Tidende)に記事と写真を提供するフリーランスのフォトジャーナリストであり、専門とする分野は世界各地で起こっている戦争や紛争であった。ボッシュは、ベトナムに出征した経験から戦争特派員にある種の親近感を持っていたが、捜査の過程で調べることになった彼女の言葉や写真は、ボッシュの心に直接何かを訴えかけてくる。それによってボッシュは「彼女からすべてを奪っていった者を見つけ」ようと、一層強く決心するのだった。

The MS Golden Iris, formerly Rhapsody or Cunard Princess (“Saudi Princess” in this book)

ボッシュらが犠牲者の直前行動を追うと、彼女は前年に、イラクにおける「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を取材するため”サウジプリンセス”(Saudi Princess)という客船を訪れていた。これは当時実在した船でバーレーンに係留され、湾岸戦争下で米軍のレクリエーション施設として使われたことが知られている。その後の彼女は、1992年の春頃に米軍駐屯地のあるドイツを訪れ、その足でアメリカに入国して各地を巡った後でロサンジェルス暴動に遭遇したことが判明するのだが、彼女の重要な持ち物であるはずのカメラやメモなど一切の記録が失われていた。

Berlingske Tidende,
Copenhagen, Denmark

ここで読者は、犠牲者がなぜ北欧出身でなければならなかったか、という疑問を持つかも知れない。筆者の考える理由は、作者コナリーが(失礼ながら)”Snow White”のネーミングに見られる通り意外にロマンティストであることを除けば、ある登場人物が作中で述べる「ほんもののブロンド(女性)」という一つの言葉にヒントがある、とだけお伝えしておこう。なお、ベアリンスケ・ティズネ(Berlingske Tidende)は1749年にコペンハーゲンで創立された”世界最古の新聞”の一つであり、多くの賞を受賞した由緒正しい新聞社であることから、そこに元記者であるコナリーの敬意が感じられないこともない。現在は単に”Berlingske”と名前を変えており、また”BT”という似た名前のタブロイド紙も別にある(ささいなことだが、本作では両紙がやや混同されている気もする)。

本作の犠牲者が北欧人である必然性は別として、「白人」であることには若干の意味がある。LAPDとしては、メディアから暴動20周年の報道取材を受けるにあたって、当時の未解決事件は(犠牲者の人種等で選別されるといったこともなく)専任班によって適切に捜査されている、と発表したい意向があった。そのため、ボッシュが「一人の白人被害者」に拘っているところに、本部長が圧力をかける。シリーズ読者にはすぐそれと分かる「ハイ・ジンゴ(“High Jingo”)」の一種である。そのことに関連して、本作ではシリーズに欠かせない「小さな器の上司」が新たに着任し、年長の反抗的部下であるボッシュに対して執拗に圧力を加え、最後には、予想された通りの結果となって読者の失笑を買うといった名(迷)脇役を演じている。(ハイ・ジンゴについては、こちらを参照

転落の街(下) (講談社文庫)転落の街(上) (講談社文庫)本部長登場のついでながら、ボッシュの元パートナーであるキズミン・ライダーの消息も伝えられている。ボッシュは、前作(転落の街;The Drop)で、LAPD批判の先鋒に立っていた市議会議員との不実な政争に巻き込まれ、本部長と信頼していたキズミンに利用されてしまった。彼女はその折の功績もあって、いまやウエスト・ヴァレー署の警部(Captain)に昇進しているのだが、ボッシュとは絶交状態が続いている。(コナリーがその気になってくれることが前提だが)いずれ機会があれば、彼女がその後どのように活躍しているかを書くこともあるだろう。(「キズミン〈キズ〉・ライダー その1」、「同 その2」を参照)

さて、この記事シリーズで筆者は、ミステリーとしての核心部分には触れず、主に作品を楽しむための”Tips”をお伝えしている。本作も同様にさらりと紹介すればいいと感じていたのだが、書き始めてみると意外に話題性が多く、スペースが足りなくなってしまった。そこで、書き残しは次回に振り分けることをお許しいただきたい。次回は、プロットと人物の両面からシリーズの流れを捉えていただくため、上で述べた以外の2、3の女性たちについて、また、メイン・プロットからほぼ独立して描かれるボッシュの家庭生活(と言えばお分かりになるであろう・・)に触れるとともに、やや蛇足ながら、筆者が興味を持ち続けている地理的な舞台背景なども併せてご紹介したい。また本作では、コナリーが読者サービスのつもりか、あるいは自分自身の嗜好を書き足しただけなのか不明だが、いつも以上に多くの楽曲が登場する。それらについては、例によって「ボッシュ・シリーズと音楽 その17」で紹介させていただく。

ブラックボックス その2 につづく。

転落の街 The Drop

Hong Kong

マイクル・コナリーは2009年の「ナイン・ドラゴンズ」で、ハリー・ボッシュ・シリーズに織り込まれていた主要プロットの一部を強制的に、まったく別の方向へとシフトしてしまった。シリーズのそれまでの延長線上で、難事件を追いながらも淡々と残された年数を過ごし、LAPDの一刑事という天職を全うするのだろう。そんなボッシュの後半生を想像していた読者もいたに違いないが、「ナイン・ドラゴンズ」はあらゆる意味で衝撃的な作品となり、少なくとも「ボッシュ(あるいはシリーズ)がこれからどうなる?」ということについて、単なる期待と不安以上の関心を呼び起こすことに成功した。

ボッシュはその後「判決破棄」(2010年)でミッキー・ハラーを助け、「証言拒否」(2011年)でも少しだけ顔を見せてはいたが、長年にわたってボッシュを追いかけ、シリーズを知り尽くした読者がその程度に満足するわけがない・・・ということで本作は、ボッシュが2年ぶりに「読者のもとに帰ってきた」シリーズ正編作品である。2010年11月、ボッシュはRHDの未解決事件班(the Open-Unsolved Unit; 別名ではthe Cold Case Special Section)に戻り、「三合会」の捜査で知り合ったディヴィッド・チュー(David Chu)と組んでいる。本作の時点は2011年10月初めで、ボッシュは61歳。「DROP; Deferred Retirement Option Plan」という制度を使って定年を延長し、39ヵ月後(2014年12月)に退職予定という立場になっている。

転落の街(下) (講談社文庫)転落の街(上) (講談社文庫)僭越ながら、シリーズ愛読者も本作の痒いところに手がとどくような出来映えには満足するだろう。原題の”The Drop”には、ボッシュに適用された定年延長制度の名称のほか、ある事件で分析された血痕=滴(しずく;drop)、もう一つの事件の発端であるホテル高層階からの転落(drop)という三重の意味がこめられている。ボッシュは、残り少ない刑事人生についてかれなりの感慨を抱きながら、同時並行でふたつの重要事件を捜査していく。作者コナリーは、未解決事件の新証拠として扱われることの多いDNAの二重螺旋イメージから連想し、「撚り合わせながらも、おたがいにけっして触れあわないふたつの異なる物語」をメインに据えて描こうとしたのである。

そればかりではない。コナリーはもっと驚くべきことに、メイン・ストーリーの絶妙な合間を縫って「その後あの話はどうなったか」というまさに読者の知りたかった情報を過不足なく、また違和感なく挿入することに成功している。すなわち、ボッシュと快活になった娘マディとのほほえましい生活ぶり、アーヴィン・アーヴィング(元LAPD副本部長)との確執の延長戦、また、出世階段を上りつつあるキズ・ライダーの成長(?)、若いアジア系パートナーとの師弟関係、はたまた新たな女性との出会い(!)など、数々の新たなエピソードがマルチ・レイヤーとして重層的に描かれている。長年のファンを自認する方々ならば、本作で、コナリーのいつもながら読者を飽きさせないサービス精神と、いまだ進化中の創作技術をうれしい驚きとともに再発見するだろう。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

また、本作の背景には、ウッドロー・ウィルソン・ドライブのボッシュの自宅や、ハリウッド署のオフィス(ジェリー・エドガーの机にボッシュがいたずらする場面付き)、その他すでにお馴染みとなっているLAの名所が描かれて懐かしさを覚えるとともに、ボッシュのジャズ好きがマディに伝染したと思われる場面などから、本シリーズに彩りを与えてきた音楽世界もまた健在であることが確認できる。ミッキー・ハラーの元妻で検事補、マギー・マクファースンの消息もさりげなく明かされている。それらのエピソードや人物、背景などの見逃せない部分については、別の記事であらためてご紹介することにしたい。とくに、娘マディと、キズ・ライダーの深掘りは欠かせないだろう。本作の音楽については、こちらの「ボッシュ・シリーズと音楽 その16」をどうぞ。

Hollywood All Star Sessionsボッシュがどのように難事件を解決していくか。本作でもそこが最も興味深いことは当然だが、シリーズ愛読者としては(筆者を含め)、60歳を越えてLAPDを永久に去る日が定まったボッシュの心境も気になるところである。物語が始まると、早速こんな場面に出くわす。一つ目の現場で、床から立ち上がろうとしたボッシュの「膝の関節がポキンと鳴った」のである。かれは「自分にまだ刑事としての鋭さがあるかどうか、バッジと銃を所持するに値するかどうか」を日頃から疑うようになっていたが、それに加え、本作ではきわめつけの「ハイ・ジンゴ(公正な事件捜査にあるまじき濃厚な政治色*)」に遭遇し、とうとう残り39ヵ月を走り切る自信さえ失いかけてしまう。(*:ボッシュ・シリーズと音楽 その9 を参照)

しかし、意外にナイーブで動揺しがちな部分もボッシュらしいが、いずれ「初心に還る」ところがボッシュの真骨頂である。今回も「どれほど失敗をしようと、使命は終わら」ず、「つねに使命はそこにあり、つねにやらねばならない仕事がある」と、ドラマの中であらためて決意を示す。その結果、最終的には、ボッシュの雇用延長期間として最大値(2016年5月までの5年弱)が認められことになる。「まだ書き続けていきたいと望んでいる」作者コナリーが決めたことに違いないのだが、一読者としてひとまずホッとせずにはいられない。コナリーの野心的なプロット・シフトによって、ハリー・ボッシュ・シリーズがここ当分は楽しめると保証されたことは朗報だ。

なお本作では、「だれもが価値がある、さもなければだれも価値がない (Everybody counts or nobody counts)」という、知る人ぞ知る状態であったボッシュの信条が、物語のなかでひとり歩きする。長年の宿敵であるアーヴィン・アーヴィングが、どこで聞いたのか、そのフレーズを持ち出してボッシュに事件の捜査を強いるところはひねりが効いていて面白い。

Chateau Marmont Hotel — on the Sunset Strip in West Hollywood

余談であるが、「転落」の一つの現場となったシャトー・マーモント・ホテル(the Chateau Marmont Hotel in West Hollywood)は、作者コナリーのお気に入りの一つとのこと。現在かれはLAに住んでおらず、フロリダのタンパから取材や執筆のためにLAを訪れる日々を送っている。そして、しばしば実際にシャトー・マーモントの79号室に滞在し、そこを本作の事件現場に採用したことをインタヴューで語っている。こうして、ハリー・ボッシュ・ツアーの新名所がまた一つ増えたのも楽しい。