ボッシュ・シリーズと音楽 その16

香港での事件(ナイン・ドラゴンズ)から2年、ハリー・ボッシュはウッドロー・ウィルソン・ドライブの自宅で、ひとり娘マディと共に暮らしている。60歳という年齢の山を越え、現場に出る仕事が少しずつ減ってきたという事情もあって、おそらくは自宅で過ごす穏やかな時間が増えているであろう。そこにはもちろん、お気に入りの音楽が流れている。「転落の街(The Drop)」から、そうした場面を拾ってみよう。

City Nights: Live at The Jazz Standard「裏のデッキで一杯やらないか?」と、ボッシュが声をかけた相手は事件で知り合った女性医師だが、親しくなるのに彼の自宅ほど適した場所はない。「ふたりは山間路の底から上がってくる、フリーウェイを行き交う車の音に出迎えられた。吹きさらしのデッキに出ると、風は清々しかった」・・・・・「なにか音楽をかけて、グラスを取ってくる」と、室内に戻ったボッシュは「スロットになにが入っているのか定かではなかった」がプレーヤーをかける。すると「すぐにフランク・モーガンのサクスフォンが聞こえ、それで充分すばらしいとわかった」 ―― Frank Morgan with George Cables, “All Blues” in “City Nights Live at The Jazz Standard”(CD)

次は、マディとの場面。帰宅したボツシュは玄関を通り抜け、「娘がリビングで音楽をかけながら本を読んでいるのを目にし」、片手にタコスの袋、もう片方に書類を抱えたまま立ちつくす。

「なに?」マディが訊ねた。
「アート・ペッパーを聴いてるのかい?」
「うん。本を読むのに合ってると思って」

Modern Artボッシュは笑みを浮かべ、・・・それからタコスで簡単な食事をとりながら、ひとしきり父娘らしい会話を続ける。授業のことや、ボーイフレンドはいるのかとか、ボッシュの交際にかまをかけるマディ、捜査にまつわる無害な話題など。 ―― Art Pepper Quartet, “Modern Art”(CD)

 

Downtown, San Francisco

「CDチェンジャーが次のディスクに移行し、すぐにボッシュはチェッ卜・ベイカーのトランペットだとわかった。曲は、ドイツからの輸入盤に入っている《ナイト・バード》だった」。ボッシュは1982年に、サンフランシスコのクラブでその曲を演奏するベイカーを見ていた。ボッシュは娘にたずねる。「おまえがこれを入れたのか?」 ―― Chet Baker, Nightbird in “Nightbird” (CD)

 

マディは本から顔を起こした。

「これって、チェット・ベイカーのこと?
 うん、聴きたかったんだ。パパの事件(*)と廊下の詩のせいで」

Nightbirdボッシュは廊下に出て、額装した「一枚の紙」を見つめる。かれは演奏するベイカーを見た同じ年、ベニスビーチのレストランで、英国の作家、詩人でもあるジョン・ハーヴェイ本人による朗読会にたまたま行きあたった。そこで「チェット・ベイカー」という手書きの詩(コピー)を入手し、家に飾っていたのだ。その数年後、ベイカーはアムステルダムのホテルで転落死した。

(*;マディは、ボッシュがそのとき取り組んでいた転落死事件と、ベイカーの謎とされている転落死の相似に気づいたのだった。ジョン・ハーヴェイの詩については、「ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》」を参照)

Mood Indigoやがて事件は解決し、ふたたび自宅のデッキにたたずむボッシュ。かれは「酒を飲みたい気分だったが、飲んではいなかった。音楽が聞こえるように引き戸をあけたままにしていた。厳粛な気分になったときはいつもそうしているように音楽に身をゆだねた。フランク・モーガンのアルトサックス。そんな気分を整えるのにこれ以上いいものはなかった」

―― Frank Morgan, “Lullaby” in “Mood Indigo”(CD)

ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》はこちら。

ボッシュ・シリーズと音楽 その17 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》

Amsterdam

チェット・ベイカー (ジョン・ハーヴェイ作、古沢嘉通訳)

ホテルの部屋からアムステル川越しに
運河を自転車で駆けている少女を眺める
少女は片手を上げて振る
少女がほほ笑んだとき、彼は昔に戻る
ハリウッドのプロデューサーたちがこぞって
彼の人生をほろ苦い物語に変えてしまいたがったあのころに。
ひどい失敗を繰り返し、ただピア・アンジェリと
キャロル・リンレイとナタリー・ウッドとの恋だけがあった。
五二年の秋のあの日、彼はスタジオにふらっと入ってきて
「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」の曲のなかで、
あの完壁な旋律を演奏した ――
そしていま、窓と過ぎ去っていく少女のほほ笑みから
顔を起こし、完壁な空の青を見上げたとき
彼は知る。いまこそ、ほんとうに空を飛べる
めったにない日であることを。

Photo by Jeroen Coert – Plaquette van Roman Zunk aan de gevel van hotel Prins Hendrik te Amsterdam. Gemaakt naar een pasteltekening van Bert de Jong (2005) / CC BY 3.0

“Chet Baker”  by John Harvey

looks out from his hotel room
across the Amstel to the girl
cycling by the canal who lifts
her hand and waves and when
she smiles he is back in times
when every Hollywood producer
wanted to turn his life
into the bitter-sweet story
where he falls badly, but only
in love with Pier Angeli,
Carol Lynley, Natalie Wood;
that day he strolled into the studio,
fall of fifty-two, and played
those perfect lines across
the chords of My Funny Valentine –
and now when he looks up from
his window and her passing smile
into the blue of a perfect sky
he knows this is one of those
rare days when he can truly fly.

(From “Bluer Than This”)

My Funny Valentine―― Chet Baker, My Funny Valentine in “My Funny Valentine” (CD)

 

 

 

 

 

ボッシュ・シリーズと音楽 その1

ハリー・ボッシュの趣味はモダン・ジャズである。とくにサクソフォンがいちばんのお気に入りということが、作中で毎回のように描かれるのでよくわかる。マイクル・コナリーによれば、ボッシュが初めて意識してジャズを聞いたのは、1965年、15歳のとき。カーラジオから流れるチャーリー・パーカーを耳にして以来、ジャズのとりこになったとしている。

主人公ボッシュはジャズを偏愛しているが、作者コナリーはロック、ポップ、ソウル、クラシックなど、かなり幅広いジャンルを聞いているようだ。作中、極めつけのジャズが流れているのはボッシュのいる周辺だけで、そのほかでは意外と多彩な音楽が使われている。

これから、この「ボッシュ・シリーズと音楽」という記事で、順を追って紹介していきたいと思うが、作中に現れるCDのバージョン等については詳細がほぼ不明であるため、当たらずしも遠からず、かつ日本で入手できそうなもの、という考え方で紹介させていただくので、ご容赦たまわりたい。

Coltrane (Reis) (Rstr) (Dig)第1作「ナイトホーク(The Black Echo)」では早速、ジョン・コルトレーンのサックスを聴く場面がさらりと描かれる。仕事を終えた帰宅の途上、「ボッシュはカーラジオをジャズ専門局にあわせた。コルトレーンが《ソウル・アイズ》を演奏する」 ―― John Coltrane, “Soul Eyes” in “Coltrane”(CD)

別の一場面。夜9時ごろに、自宅に着いてひといき入れるボッシュ。「ドジャースの試合を聞こうとしてラジオをつけたが、人の声にうんざりして消してしまう。そのかわりに、ソニー・ロリンズとフランク・モーガン、ブランフォード・マルサリスのCDをステレオにかけ、サクソフォンの調べに耳をかたむけた」 ―― Sonny Rollins, Frank Morgan, Branford Marsalis

Falling in Love With Jazzエレノア・ウィッシュのタウンハウス。「ボッシュは本棚の隣の棚にはめこまれているステレオのところへ歩いていき、あたらしいディスクを手にした。ソニー・ロリンズの《フォーリン・ラヴ・ウィズ・ジャズ》だ。内心ボッシュは笑みをうかべた。おなじものが家にある」 ―― Sonny Rollins, “Falling In Love With Jazz”(CD)

Adam's Appleボッシュの監視されている自宅。ボッシュは、「ウェイン・ショーターのCDをかけた」・・・その曲がかかっている間に(6分34秒)、自宅のカーポートにしかけられた盗聴器をはずし終えて家のなかにもどる・・・そして、「ショーターが《502ブルース》を吹き終えた」 ―― Wayne Shorter, “502 Blues” in “Adam’s Apple”(CD)

Fire: the Jimi Hendrix Collectionベトナムについて、いつも悩まされている悪夢を別として、ボッシュにいちばん鮮明に残っている記憶は何なのか。なんとジミヘンのロックだ。トンネル・ネズミの戦友が、「いつも持ちはこんでいるポータブル・テーププレーヤーにカセットをほうりこみ、ジミー・ヘンドリクスの《紫のけむり》をトンネルのなかに轟きわたらせた。(中略)それ以来、ロックがきらいになった」 ―― Jimi Hendrix, “Purple Haze” in “Fire – the Jimi Hendrix Collection”

Complete Africa/Brass Sessions第2作「ブラック・アイス(The Black Ice)」の導入部も、やはりコルトレーンで始まる。クリスマスの夜、独りきりの自宅。ボッシュは、「コルトレーンがアレンジした《ソング・オブ・ジ・アンダーグラウンド・レイルロード》をCDプレーヤーにかける。食べ、飲みながら、カードを開封し・・・」とある。 ―― John Coltrane, “Song of the Underground Railroad” in ” Complete Africa/Brass Sessions”(CD)

(中略)続けて、「コルトレーンは、ボッシュがほんの子供のころにニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで演奏した《スピリチュアル》のライブ録音に入っていた。だが、そのとき・・・」とある。ただ、該当しそうな以下の3種類のCDのなかに、上記の“Song of …”は見つからなかった。  ―― John Coltrane, “Spiritual” in these CDs; (1) “The Complete 1961 Village Vanguard Recordings”(Box set; 4 CDs), (2) “Live At The Village Vanguard The Master Takes”(CD),  (3) “Live at the Village Vanguard”(CD)

The Complete 1961 Village Vanguard RecordingsLive At The Village Vanguard: The Master TakesLive at the Village Vanguard (Reis) (Rstr)

 

 

Mood Indigoさて、恋人テレサ・コラソンに別れを告げたあとの、ボッシュの自宅。「フランク・モーガンのアルバム《ムード・インディゴ》をCDプレーヤーにかけ、リビングで立ち尽くしたまま、最初のソロパートのフレーズに耳を傾けた。《ララバイ》という曲だ。サクソフォンの調べより真実のものはなにもないのだけはわかっている、とボッシュは思った」 ―― Frank Morgan, “Lullaby” in “Mood Indigo”(CD)

When a Man Loves a Womanこの項の最後になるが、ボッシュが同僚刑事のリカードとともに、麻薬密売少年を確保しようとする街中。リカードがボロをまとった酔っ払いに変装し、歌いながら路地を歩いている。ボッシュは、「その歌が酔っ払いのかすれ声で歌われているパーシー・スレッジの《男が女を愛する時》だと思った」 ―― Percy Sledge, “When a Man Loves a Woman” in ” When a Man Loves a Woman”(CD)

ボッシュ・シリーズと音楽 その2 につづく。










ボッシュ・シリーズと音楽 その2

本シリーズには、ボッシュの大好きなモダンジャズはもちろん、その他にもたくさんの懐かしいスタンダードや名曲、こころに沁みる歌などが次々に登場する。それでは、シリーズ第3作「ブラック・ハート(The Concrete Blonde)」の中ごろのエピソードから紹介したい。

MINNIE THE MOOCHER (IMPORT)ボッシュが悪党の住む高級アパートメントのロビーに入ると、「・・・中央に自動演奏しているグランドピアノが置かれている。ボッシュは、その曲がキャブ・キャロウェイのスタンダード・ナンバー、《エヴリバディ・ザット・カムズ・トゥ・マイ・プレイス・ハストゥ・イート》であるのに気づいた」 やれやれ、長いカタカナ名は読みづらい。 ―― Cab Calloway, “Everybody That Comes To My Place Has To Eat” (Everybody Eats When They Come to My House) in “Minnie the Moocher”(CD)

Nothing But The Best (Remastered)ボッシュは、挙動不審の刑事をひそかにつけ、とあるバーに足を踏み入れる。稼ぎのいい弁護士などがたむろする場所だ。すると・・・「ボッシュからは見えない位置にあるジュークボックスがシナトラの《サマー・ウィンド》を奏でており・・・」と、場所柄にぴったりと思えるようなBGMが流れている。 ―― Frank Sinatra, “Summer Wind” in ” Nothing But the Best”(CD)

続いて、ボッシュは不実な同僚刑事を詰問するため行きつけのレストランバー「レッド・ウィンド」にいく。このロケーションはたびたび作中で使われる。そこで・・・「ボッシュはいまいわれたことについて2、3分じっと考えた。バンドがビリー・ストレイホーン《おいしい生活》という曲で演奏をはじめたのを眺める。」

ボッシュは詰問を続けながら、「カルテットに視線をもどした。まだストレイホーンのナンバーをつづけており、いまは《ブラッド・カウント》を演奏していた。サックス奏者の演奏は職人芸だった。勘どころをつかんでおり、フレージングは明瞭だった」と、評価が述べられる。

Lush Life: Music of Billy Strayhorn 同僚刑事が立ち去ったあともボッシュはしばらく同じ場所にとどまり、もう一杯注文する・・・「カルテットは《レイン・チェック》を演奏しており、若干即興のリフを加えているのが、ボッシュの気にいった・・・」ここでは、ボッシュが聴いたパフォーマンスにけして劣らぬ名盤を紹介させてほしい。 ―― Billy Strayhorn, “Lush Life”,  “Blood Count” and “Rain Check” in “Lush Life Music of Billy Strayhorn”(CD performed by Joe Henderson)

ボッシュ・シリーズと音楽 その3 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その3

シリーズ始まりの4連作・完結編「ラスト・コヨーテ(The Last Coyote)」でも、じつに多彩な音楽が、背景やそれ自体をモチーフとして使われている。

クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス まずはボッシュの日常風景から・・・「ボッシュはダイニングのテーブルからふるい郵便物と日曜大工関係の書籍をとっぱらい、バインダーと手帳をのせた。ステレオのところにいき、コンパクト・ディスクをかける――《クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス》」 ―― Clifford Brown, “Willow Weep For Me” in “Clifford Brown With Strings”(CD) (中略)「彼のトランペットは、肖像画家の筆のように柔らかだった」

ザ・ポピュラー・デューク・エリントン33年前の母親の事件を調べるボッシュはその日、暗くなってからブロードウェイを南下してある店に入る・・・「奥のちいさなステージではクインテットが演奏していた。リードはテナーサックスだ。バンドは、《ドゥ・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー》の演奏を終わろうとしており・・・」 ―― Duke Ellington, “Do Nothing Till You Hear From Me” in ” The Popular Duke Ellington”(CD)

What a Wonderful Worldそのあと、「・・・バンドは、《この素晴らしき世界》に移っていた。(中略)ボッシュは歌詞を覚えていた・・・(ここに6行の歌詞が挿入される)・・・その歌はボッシュを孤独にさせ、悲しくさせたが、それはそれでかまわなかった」 ―― Louis Armstrong, “What a Wonderful World” in “What a Wonderful World”(CD)

You Gotta Pay the Band次いで、いつものように自宅に向かうボッシュ。「ラジオをつけ、DJがアビー・リンカーンの歌を紹介するのを聞いた。その歌を耳にするのははじめてだったが、すぐに歌詞と女性歌手の低いしわがれた声が気にいった」 ―― Abbey Lincoln, “Bird alone” in “You Gotta Pay the Band”(CD)

R.コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 「ボッシュは、自分が幼く、まだ母親といっしょにいたころのことを思い返した。(中略)母は、いつかハリウッド・ボウルに《シェヘラザード》を聴きにあんたを連れてってあげる、といつもボッシュに話していた。それは、母のお気にいりの曲だった」 ―― Nikolai Rimsky-Korsakov, “Scheherazade” in “Scheherazade”(CD) performed by Charles Dutoit / Montreal Symphony Orchestra

ボッシュは、母親とはついに行けなかった《シェヘラザード》の演奏をある時、恋人と聴きにいく・・・「シルヴィアは、ボッシュの目に涙がこみあげているのを見て、音楽の純粋な美しさゆえだと思った。ボッシュは、別の理由があることはあえて彼女には告げなかった」

Midnight Love 調査のためひそかにマイアミに飛んだボッシュと、ある女性との会話の中でマーヴィン・ゲイの歌が話題となる。そのできごとは後日、LAでの別人との会話にも使われる・・・「マーヴィン・ゲイが歌っていたあの歌を聴いたことがあるか?彼が殺されるまえに作ったあの歌を?確か・・・」 ―― Marvin Gaye, “Sexual Healing” in “Midnight Love”(CD)

Blue Valentineロサンジェルス地震で自宅が半壊してしまったボッシュは一時、ホテル暮らしを余儀なくされ、荷物を部屋に運びこむ。ステレオをあるべき場所に設置したあと、「CDの箱をかきまわして、《ブルー・ヴァレンタイン》というタイトルのトム・ウェイツのCDを取り出した。もう何年もそれを聴いたことがなかったので・・・」 ―― Tom Waits, “Blue Valentine”(CD)

 

ボッシュ・シリーズと音楽 その4 につづく。