ボッシュ・シリーズと音楽 その14

「電話は深夜にかかってきた。ハリー・ボッシュは照明を落としたリビングで起きており、腰を下ろしていた。サキソフォンの音色をよりよく聞けるからこうしているのだ、と考えたかった」 いつもなら、 事件捜査で心身とも疲れきったボッシュを癒すはずのジャズだが、「死角(The Overlook)」では冒頭からすでにジャズ・モードだ。

City Nights: Live at The Jazz Standard電話は上司からの緊急要件だったが、やりとりが妙にリラックスしていて面白い。「だれの演奏だ?」 「フランク・モーガンです。ニューヨークの《ジャズ・スタンダード》でのライブですよ。いま聞こえているピアノはジョージ・ケーブルズです」 「《オール・ブルーズ》みたいだな」 ・・・邪魔するのが悪いなと言ってくれる心にくい上司で、従来の警察内部をよく知る読者としては、かえって居心地が悪いほど。  ―― Frank Morgan with George Cables, “All Blues” in “City Nights Live at The Jazz Standard”(CD)

ライヴ・イン・ジャパン 2003 しばらくあと、事件現場からダウンタウンに向かうボッシュ。「・・・ 一枚のCDをそれがなんなのか見ずに選んだ。最初の曲の出だしの音で、ベース奏者ロン・カーターの日本からの輸入盤だとわかった。(中略)音楽は考えを整理するのに役立ってくれた」 ボッシュは57歳のはずだが、若いころよりも絶好調のようだ。
―― Ron Carter with Billy Cobham and Kenny Barron, “Live in Japan 2003″(CD)

Our New Orleans: Benefit Album for Gulf Coast次は移動中の車からFBIに電話するボッシュ。「・・・ ボッシュの耳に音楽が聞こえてきた。(中略)待っているあいだに30秒が過ぎた。《素晴らしきこの世界》のサキソフォン・ヴァージョンが電話に流れはじめた。ボッシュは暗く聖なる夜について歌ったこの曲の歌詞を昔から愛していた」 そのことは、われわれ読者もほんとうによく知っている。サックス・ヴァージョンの著名アルバムは意外に少ない。 ―― The Wardell Quezergue Orchestra feat. Donald Harrison (sax), “What a Wonderful World” in “Our New Orleans: Benefit Album for Gulf Coast”(CD)

Dear Milesナイン・ドラゴンズ(Nine Dragons)」は、上記の「死角」の事件から2年近くが経っているという設定だが、ボッシュの音楽嗜好には連続性がある。自宅のデッキでかれは、「ロン・カーターのアルバム《親愛なるマイルス》から、《天国への7つの階段》に耳を傾ける。カーターは、この50年間でもっとも重要なベース奏者のひとりだ。いろんな相手と共演しており、カーターが語りうる逸話について、ボッシュは思い巡らすことがよくあった。(中略)カーターはつねに要だった。カーターがつねにビートを刻んだ」
―― Ron Carter, “Seven Steps to Heaven” in “Dear Miles”(CD)

Soul of Thingsボッシュは規則違反を承知のうえで、音楽を好きに聞ける自分の車で監視活動を行っていた。「・・・プレーヤーに入れているのは、最近発見したお気に入りの音楽だった。トーマス・スタンコは、ポーランド出身のトランペット奏者で、まるでマイルス・デイヴィスが蘇ったような音を奏でた。(中略)・・・《ソウル・オブ・シングズ》がかかると、ボッシュは、マイルスでさえ不承不承スタンコを認めざるをえないだろうなと思わずにはいられなかった」 ―― Tomasz Stanko, “Soul of Things” in “Soul of Things”(CD)

ボッシュ・シリーズと音楽 その15 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その15

刑事弁護士ミッキー・ハラーが主人公として活躍する作品は、今回取り上げる「証言拒否 リンカーン弁護士(The Fifth Witness)」で4作目となり、ボッシュ・シリーズの単発的なスピン・オフから完全に卒業し、立派なミッキー・ハラー・シリーズとなっている。そのハラーの音楽テーマは本来、ヒップホップのはずだが、今回はどこにもそれらしき楽曲が使われていない。かれの嗜好は一向に定まらず、あっちへ行ったり、こっちに来たり、という感じだ。

Into the Purple Valleyハラーの弁護チームは厳しい戦いを強いられており、自らの士気を絶えず鼓舞していないとならない。その目的にかなった音楽は、数年前の「終結者たち(The Closers)」の中でハリー・ボッシュがよく聴いていたライ・クーダーだった。「・・・自分がそこになにを入れていたのか忘れていたが、すぐにその曲がライ・クーダーの歌う《ティアドロップス・ウィル・フォール》だとわかった。彼のアンソロジー・ディスクに入っている1960年代の古典的名曲のカバーだった。すてきな曲であり、ふさわしい曲だった。失われた愛と置き去りにされたことを歌った曲だ」 ―― Ry Cooder, “Teardrops Will Fall” in ” Into the Purple Valley”(CD)

Chavez Ravine続けて、「弁護チームは準備を整えており、いつでも出撃できた。(中略)クーダーは、いま、《プアマンのシャングリラ》を歌っていた。住民から取り上げられ、跡地にドジャー・スタジアムが建設されるまえの共同住宅チャベス・ラヴィーンにいたUFOと宇宙人のことを題材にした曲だった。

What’s that sound? What’s that light
Streaking down through the night?

わたしはロハスに音量を上げるように言った。後部座席の窓を下げ、風と音楽を自分の髪と耳に吹きかけさせた。

UFO got a radio.
Lil’ Julian singing soft and low.
Los Angeles down below.
DJ says, we got to go.
To El Monte, El Monte, pa El Monte.
Na na na na na, living in a poor man’s Shangri-La.  」

―― Ry Cooder, “Poor Man’s Shangri-La” in “Chávez Ravine”(CD)

10 (テン) [Blu-ray]bolero_dvd%ef%bc%88%e6%97%a5%e6%9c%ac%e6%9c%aa%e7%99%ba%e5%a3%b2%ef%bc%89ハラーはまた、裁判における立証過程をクラッシクの楽曲の進行によくたとえるのだが、今回は相手である検察側の演出をラヴェルの《ボレロ》になぞらえている。「それからきみが心しておくべきなのは、山は証人が加わるごとに険しくなっていくということだ。《ボレロ》という曲を知ってるかい?(中略) 『テン』のボー・デレクが主演した映画に使われていた曲だ(『ボレロ/愛欲の日々』: 日本未発売) (中略)最初はほんの少しの静かな楽器だけでゆっくりとはじまり、徐々に勢いを募らせていき、最後はオーケストラのすべての楽器がいっせいに音を奏でる大団円で終わる。それと並行して聴衆の感情は募っていき、同時にひとつになる。あの検察官が裁判でやっているのはそれだ・・・」ラヴェル:ボレロ、スペイン狂詩曲、パヴァーヌ ―― Maurice Ravel, “Boléro” in “Ravel – Bolero, Claudio Abbado / London Symphony Orchestra”(CD)

 

I Got You Babeハラーは2人の暴漢に襲われて負傷するが、あとで捕まえ、誰に雇われたかを白状させた。その黒幕に向かって、「・・・マック兄弟(暴漢)は、ソニー・ボノとシェールみたいに歌いはじめる心構えができていた。その歌は《I Got You Babe》(あんたの負けだ、ベイビー)だ。おれはあんたを裸同然にした。(中略)あんたは4年間くらいこむ羽目になるだろうな・・・」 ―― Sonny and Cher、”I Got You Babe” in “I Got You Babe”(CD)

クラプトン弁護チームは裁判に勝利した。ハラーはリンカーンの後部座席にいる。そのとき、電話がかかってきて・・・、「ロハスに音楽を止めるように伝え――最新のエリック・クラプトンのアルバムの《ジャッジメント・デイ》という曲だった――わたしは電話に出た」 かけてきたのは元妻のマギーだった。「やったの?」 ―― Eric Clapton, “Judgement Day” in “Clapton”(CD)
ボッシュ・シリーズと音楽 その16 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その16

香港での事件(ナイン・ドラゴンズ)から2年、ハリー・ボッシュはウッドロー・ウィルソン・ドライブの自宅で、ひとり娘マディと共に暮らしている。60歳という年齢の山を越え、現場に出る仕事が少しずつ減ってきたという事情もあって、おそらくは自宅で過ごす穏やかな時間が増えているであろう。そこにはもちろん、お気に入りの音楽が流れている。「転落の街(The Drop)」から、そうした場面を拾ってみよう。

City Nights: Live at The Jazz Standard「裏のデッキで一杯やらないか?」と、ボッシュが声をかけた相手は事件で知り合った女性医師だが、親しくなるのに彼の自宅ほど適した場所はない。「ふたりは山間路の底から上がってくる、フリーウェイを行き交う車の音に出迎えられた。吹きさらしのデッキに出ると、風は清々しかった」・・・・・「なにか音楽をかけて、グラスを取ってくる」と、室内に戻ったボッシュは「スロットになにが入っているのか定かではなかった」がプレーヤーをかける。すると「すぐにフランク・モーガンのサクスフォンが聞こえ、それで充分すばらしいとわかった」 ―― Frank Morgan with George Cables, “All Blues” in “City Nights Live at The Jazz Standard”(CD)

次は、マディとの場面。帰宅したボツシュは玄関を通り抜け、「娘がリビングで音楽をかけながら本を読んでいるのを目にし」、片手にタコスの袋、もう片方に書類を抱えたまま立ちつくす。

「なに?」マディが訊ねた。
「アート・ペッパーを聴いてるのかい?」
「うん。本を読むのに合ってると思って」

Modern Artボッシュは笑みを浮かべ、・・・それからタコスで簡単な食事をとりながら、ひとしきり父娘らしい会話を続ける。授業のことや、ボーイフレンドはいるのかとか、ボッシュの交際にかまをかけるマディ、捜査にまつわる無害な話題など。 ―― Art Pepper Quartet, “Modern Art”(CD)

 

Downtown, San Francisco

「CDチェンジャーが次のディスクに移行し、すぐにボッシュはチェッ卜・ベイカーのトランペットだとわかった。曲は、ドイツからの輸入盤に入っている《ナイト・バード》だった」。ボッシュは1982年に、サンフランシスコのクラブでその曲を演奏するベイカーを見ていた。ボッシュは娘にたずねる。「おまえがこれを入れたのか?」 ―― Chet Baker, Nightbird in “Nightbird” (CD)

 

マディは本から顔を起こした。

「これって、チェット・ベイカーのこと?
 うん、聴きたかったんだ。パパの事件(*)と廊下の詩のせいで」

Nightbirdボッシュは廊下に出て、額装した「一枚の紙」を見つめる。かれは演奏するベイカーを見た同じ年、ベニスビーチのレストランで、英国の作家、詩人でもあるジョン・ハーヴェイ本人による朗読会にたまたま行きあたった。そこで「チェット・ベイカー」という手書きの詩(コピー)を入手し、家に飾っていたのだ。その数年後、ベイカーはアムステルダムのホテルで転落死した。

(*;マディは、ボッシュがそのとき取り組んでいた転落死事件と、ベイカーの謎とされている転落死の相似に気づいたのだった。ジョン・ハーヴェイの詩については、「ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》」を参照)

Mood Indigoやがて事件は解決し、ふたたび自宅のデッキにたたずむボッシュ。かれは「酒を飲みたい気分だったが、飲んではいなかった。音楽が聞こえるように引き戸をあけたままにしていた。厳粛な気分になったときはいつもそうしているように音楽に身をゆだねた。フランク・モーガンのアルトサックス。そんな気分を整えるのにこれ以上いいものはなかった」

―― Frank Morgan, “Lullaby” in “Mood Indigo”(CD)

ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》はこちら。

ボッシュ・シリーズと音楽 その17 につづく。

ボッシュ・シリーズと音楽 その16《付録》

Amsterdam

チェット・ベイカー (ジョン・ハーヴェイ作、古沢嘉通訳)

ホテルの部屋からアムステル川越しに
運河を自転車で駆けている少女を眺める
少女は片手を上げて振る
少女がほほ笑んだとき、彼は昔に戻る
ハリウッドのプロデューサーたちがこぞって
彼の人生をほろ苦い物語に変えてしまいたがったあのころに。
ひどい失敗を繰り返し、ただピア・アンジェリと
キャロル・リンレイとナタリー・ウッドとの恋だけがあった。
五二年の秋のあの日、彼はスタジオにふらっと入ってきて
「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」の曲のなかで、
あの完壁な旋律を演奏した ――
そしていま、窓と過ぎ去っていく少女のほほ笑みから
顔を起こし、完壁な空の青を見上げたとき
彼は知る。いまこそ、ほんとうに空を飛べる
めったにない日であることを。

Photo by Jeroen Coert – Plaquette van Roman Zunk aan de gevel van hotel Prins Hendrik te Amsterdam. Gemaakt naar een pasteltekening van Bert de Jong (2005) / CC BY 3.0

“Chet Baker”  by John Harvey

looks out from his hotel room
across the Amstel to the girl
cycling by the canal who lifts
her hand and waves and when
she smiles he is back in times
when every Hollywood producer
wanted to turn his life
into the bitter-sweet story
where he falls badly, but only
in love with Pier Angeli,
Carol Lynley, Natalie Wood;
that day he strolled into the studio,
fall of fifty-two, and played
those perfect lines across
the chords of My Funny Valentine –
and now when he looks up from
his window and her passing smile
into the blue of a perfect sky
he knows this is one of those
rare days when he can truly fly.

(From “Bluer Than This”)

My Funny Valentine―― Chet Baker, My Funny Valentine in “My Funny Valentine” (CD)