ブラックボックス The Black Box その2

シリーズを読み通してこられた読者ならよくご承知の通り、ハリー・ボッシュの周辺では公私を問わず、というか公私が錯綜するかたちで、多くの女性が現れては去り、また現れては去っていくという場面が繰り返されてきた。ボッシュがなぜそれほどモテるのかを考えてみたが、主人公という特権的な立場にあることを除くと、よくわからない。ボッシュという人物は、外見はまずまずとしても性格は屈折しており、会話上手とはいえず、女性に対してとくに献身的ということころもなく、つまりジェームズ・ボンドのようなタイプでは絶対にない。しいて言えば、「孤高の一匹狼」というキャラクターが相手を警戒させながらも、ある種の磁力で逆に人を引きつけるのかも知れない。あるいは、ボッシュのもっと不思議なところは、事件解決のためという大義名分は常にあるにせよ、一匹狼タイプのわりにいつも誰か(とくに女性)に助けを求めるケースが多く、すると求められた相手の方は母性に似た保護本能のような部分で反応してしまう、といったパターンが見える気もするのだが・・・。

それはさておいて主題である女性たちの話題に戻ると、本作の事件がらみでは、公私の混在した不明朗な動機からボッシュの捜査を助ける女性がまずは二人登場する。そのうちの一人は、準レギュラーとなっているおなじみのFBI捜査官、レイチェル・ウォリングである。彼女がボッシュと交錯するのは、ミッキー・ハラーが担当したある事件の再審裁判以来、2年ぶりということになる(「判決破棄 リンカーン弁護士;The Reversal」を参照)。レイチェルは今回、まさに上で述べたようなパターンでボッシュを助ける。

デジャヴ [Blu-ray]二人めは、彼女の友人でスーザン・ウィンゴ(Susan Wingo)といい、ATF(Bureau of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives; 本作では”アルコール・タバコ・火器局”)の分析官という仕事に就いている。ATFは銃火器規制の一環として、犯罪に使われた銃を追跡する弾道照合ネットワークも管轄しており、今回のような事件の解決には欠かせない存在といえるだろう。本作では、彼女とボッシュとの短いが印象的なシーンが描かれている。なお、いつもの蛇足で恐縮だが、筆者はデンゼル・ワシントンがATF捜査官を演じた「デジャヴ(Déjà Vu)」という映画作品を思い出してしまった。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

公私の「公」で本作に初登場するのは、LAPDのPSB(Professional Standards Bureau;職業倫理局)に所属する刑事ナンシー・メンデンホール(Nancy Mendenhall)である。PSBは、本シリーズに度々出てきてはボッシュを悩ませたIAD(Internal Affairs Division;内務部または内務監査課)の後継となる組織であり、これもシリーズではおなじみのブラッドベリー・ビルにオフィスを構え、今回も、審問のためにボッシュらをそこに呼びつける場面が描かれている。ボッシュは初対面の印象として、メンデンホールが「愛矯があるとは言えないが、率直なほほ笑みを浮かべた小柄な女性だった」ので、逆に警戒心を起こす。彼女にはさりげなさと同時に、何かを含むような謎めいた部分がどことなく感じられ、練達の読者もボッシュのように幻惑されてしまうかも知れない。彼女は、本作以降の作品にも、引き続き登場することが伝えられている。

Photo by Frank Schulenburg – San Quentin State Prison, Marin County, California (2017) /CC BY-SA 4.0

次に、ボッシュの「私」生活に視線を転じると、前作(転落の街;The Drop)で初登場した医師ハンナ・ストーン(Dr. Hannah Stone)との交際がどうやら続いているようである。野次馬としては「その後どうなったか」と思っていたが、大人同士の男女としてごく普通の範囲と言えばそれまでだが、順調なようでもあり、また微妙な距離感を生じつつあるようにも見える。ボッシュは今回、捜査のためにサン・クエンティン州立刑務所(San Quentin State Prison)を訪れ、そのついでに収監中のハンナの息子に面会するのだが、その何げなく挿入された小さなエピソードが、後々、ボッシュの「公・私」双方に思わぬ波紋を広げていく・・・というあたりは、コナリーらしい手慣れた展開と言えなくもないだろう。ただ、少し気になるボッシュとストーンの関係がこれから先、どこに向かうのかは、読者としてじっと見守っていくほかない。

このように、あらためてボッシュの周辺を彩る女性たちを眺めてみれば、彼女らに概ね共通する要素があることに気付くだろう。それは、彼女たちが職業キャリア的に、また人格・識見において本シリーズに登場する他の主要人物に引けを取らないどころか、いずれも女性という不利な立場を乗り越えて、非常にしっかりと「自立」していることである。また、さらに付け加えるならば、(ひょっとすると、女性につい肩入れしたくなる筆者の妄想に過ぎないかも知れないが)彼女たちはみな、自立した人間に特有の「美しい強さ(あるいは、強さを兼ね備えた美しさ)」を放っている、と言えないだろうか。足腰に不安を覚えるようになった60代の主人公ボッシュに対し、女性たちが頼もしい支援を与え、ときには手強い相手を務めたりするという構図を見ると、テーマの一つが「老刑事と女たち」に変化したと思えるほどである。

The Catcher in the Ryeさて、ボッシュにとって事件解決よりも重要なことがあるとすれば、それは娘マデリン(マディ)と過ごす日常の時間そのものに他ならない。本作では、そのことをますます色濃く打ち出そうとしている作者コナリーの”決意”のようなものが感じられる。マデリンはいまや完全にボッシュの人生の一部、というよりも大半を占めるようになっている。普通の親にとっては当たりまえの、子どもに対する責任やささいな心配事などが、本筋とはまったく無関係にこれほどまで重大な事柄として描かれるということは、この種の小説としては異例と言ってもいいだろう。親でもある主人公が、事件に巻き込まれた娘を必死の思いで救い出そうとするといった”平凡な”ストーリーは世の中にいくらもあり、本シリーズでも「ナイン・ドラゴンズ (Nine Dragons)」がまさにその筋書きを踏襲したものであったが、その時点を境にしてハリー・ボッシュの人生が劇的に転換したことが、本作でも、父娘の日常描写を通じ、あらためて強調されているのである。

ひとつの典型的な場面を再現してみたい。マデリンが、本好きなら誰もが知っている「キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)」を読んでいる。そこに、ボッシュが話しかける・・・

「あのさ、パパはちょっと彼みたいなんだよ」マデリンが言った。
「ほんとか?その本の主人公の少年がか?」
「ミスター・モールが言うには、この本は純真について書かれたものだって。主人公は幼い子どもたちが崖から落ちるまえにつかまえたいと願っている。それは純真さが失われるというメタファーなんだって。主人公は、実際の世界の現実を知っており、子どもたちがそれに直面しなければならなくなるのを止めたがっている」 (中略)

「そうだな」ボッシュは言った。「おれは崖から子どもたちが落ちてからやってくる人間だとは思わないか?殺人事件を捜査しているのだから」
「うん、でも、その似たところが殺人事件の捜査をしたいと思わせているんだよ」 マデリンは言った。「パパは子どものころいろんなものを奪われた。それがパパに警察官になりたいと思わせたんだと思う」
ボッシュは黙りこんだ。

感受性ゆたかな少女が垣間見せる深い洞察に、フィクションだとわかっていても感動を覚えざるを得ない。ボッシュは、自分と同じように娘もまた「子どものころにいろんなものを奪われた」ことに心を痛め続け、その娘を何とか応援したいと頑張っている。同じ親世代の読者としては、ボッシュがそのように普通の親になり切ろうと奮闘すること自体が、かれにとって至上の幸せであることをよく理解できるので、たとえ小説全体の3分の1ほどがホームドラマになってしまっても、それはそれで容認せざるを得ないだろう。また、そのことに加え、これから先は一作ごとに、ボッシュの年齢がますます気掛かりとなっていくことも確実であり、そうした諸々の要素から、近い将来、本シリーズが成立しなくなるような事態さえも、残念ではあるが覚悟しておく必要があるのかも知れない。

ただ、筆者にはファンとして、コナリーに対しクレームしたいことが一つだけある。それは、父娘の微笑ましい日常の中に、妻であり母であったエレノア・ウィッシュの面影が見当たらないことである。父娘の「いまこの瞬間の幸せ」に集中したい気分も理解できるが、その父娘が「いまある」のはエレノアの存在あってのことだし、最も近い肉親の喪失記憶をこのように薄めてしまっているコナリーの描き振りには、必ずしも同意できない。マデリンがいつの日か独り立ちし、颯爽とした主人公になる時がやって来るのかも知れないが、その時になってやっと回想やトラウマとしてエレノアを登場させるという扱いは無神経であり、父娘が幸せになればなるほど、その陰で忘れられがちとなるエレノアの存在はあまりに哀し過ぎるのではないか。はたして皆さんは、どのようにお感じであろうか?

Photo by Kafziel – The Great Mausoleum at Forest Lawn in Glendale, CA (2009) /CC BY-SA 3.0

さて、あとは余談であるが、本作から「フォレスト・ローン墓地 (Forest Lawn Memorial Park, Glendale)」というハリー・ボッシュ・ツアーの新名所をとりあげておきたい。そこには、クラーク・ゲーブルやウォルト・ディズニーなどの多くの有名人に交じって、ボッシュの実父(J・マイクル・ハラー;J. Michael Haller)の墓があり、本作では仕事がらみでボッシュが訪れる場面が描かれている。

The Modesto Arch in Modesto, north central California. The slogan is the city’s motto: “Water, wealth, contentment, health”

また、今回はめずらしく、事件がLAからかなり離れた場所で完結するのだが、その土地もご紹介しておきたい。カリフォルニア州の中央部やや北寄りに位置するスタニスラウス郡(Stanislaus County, California)という地方で、コナリーがその場所を選択した必然的理由については、ぜひ本文でお確かめいただきたい。

 




ブラックボックス The Black Box その1

2,000 California Army National Guardsmen patrolled the city to enforce the law in the 1992 Los Angeles riots.

2012年、ハリー・ボッシュのいるRHDの未解決事件班(the Open-Unsolved Unit)は、1992年のロサンジェルス暴動20周年の一環として、その時からの未解決殺人事件をすべて再調査するよう命じられる。ボッシュには当時、状況のせいで十分な捜査を行うことができず長い間心中でやましさを感じていた一つの事件があったが、20年が経ち、ようやく再捜査のチャンスが訪れたのである。混乱の最中に射殺された犠牲者はひとりの外国人女性で、ボッシュは彼女を白雪姫(Snow White)として記憶していた。なお、原著が出版されたのは描かれた事件とリアルタイムの2012年であり、コナリーの処女作出版(ナイトホークス; The Black Echo, 1992)からも数えて20周年にあたる。(ロサンジェルス暴動については「ボッシュの履歴書(3)」を参照)

M9 pistol, a military spec Beretta 92FS

ボッシュは、飛行機の墜落を調べる調査官のように、事件の核心に近づくための「ブラックボックス」を探し、事件現場で回収された9mmの薬莢が一つの突破口になり得ると考える。その検証技術やデータベースは20年の間に進化しており、薬莢は2件の殺人事件で使用された”ベレッタ92”の発射痕と一致した。その事実は、犠牲者の死が、暴動下で偶然もたらされた暴力によってではなく、何らかの背景や計画性をもった故意による死という可能性を示しており、ボッシュの長年抱き続けた疑問に一つの確証を与えるものだった。ここからのボッシュは、「犠牲者を代弁して、復讐を遂げずにはおかない」あのハリー・ボッシュが健在であることを読者に誇示しながら、一歩また一歩と容疑者に迫っていくのである。

リーサル・ウェポン2 炎の約束 [Blu-ray]ダイ・ハード [Blu-ray]ハリー・ボッシュシリーズではふつう、銃器に関するマニアックな記述はほとんど現れないのだが、本作に限っては、凶器となった拳銃が題材の一つになっている。”ベレッタ92”(the Beretta 92)は、アメリカ軍(やその他多くの軍隊)の制式拳銃であり、法執行機関でも制式採用しているところが多いことから、警察や犯罪ジャンルの小説・映画によく登場することでも知られている。たとえば、「ダイ・ハード」シリーズのジョン・マクレーン警部補(ブルース・ウィリス)や、「リーサル・ウェポン」シリーズのマーティン・リッグス刑事(メル・ギブソン)が持っていた拳銃もベレッタ92である。つまり、このモデルは膨大な数が世界中に流通し、使われた犯罪件数も膨大という背景があり、本作に出てくるような弾道照合が捜査手段としていかに有効かということが理解できる。また、本作では、その他の科学的な捜査技術や、パートナーのディヴィッド・チューがやってみせる、素人にもできそうなネット捜査等についても面白く読めるだろう。

本作における興味深いもう一つの特徴は、犠牲者のプロフィールである。彼女は、デンマークの実在する日刊紙ベアリンスケ・ティズネ(Berlingske Tidende)に記事と写真を提供するフリーランスのフォトジャーナリストであり、専門とする分野は世界各地で起こっている戦争や紛争であった。ボッシュは、ベトナムに出征した経験から戦争特派員にある種の親近感を持っていたが、捜査の過程で調べることになった彼女の言葉や写真は、ボッシュの心に直接何かを訴えかけてくる。それによってボッシュは「彼女からすべてを奪っていった者を見つけ」ようと、一層強く決心するのだった。

The MS Golden Iris, formerly Rhapsody or Cunard Princess (“Saudi Princess” in this book)

ボッシュらが犠牲者の直前行動を追うと、彼女は前年に、イラクにおける「砂漠の嵐」作戦(Operation Desert Storm)を取材するため”サウジプリンセス”(Saudi Princess)という客船を訪れていた。これは当時実在した船でバーレーンに係留され、湾岸戦争下で米軍のレクリエーション施設として使われたことが知られている。その後の彼女は、1992年の春頃に米軍駐屯地のあるドイツを訪れ、その足でアメリカに入国して各地を巡った後でロサンジェルス暴動に遭遇したことが判明するのだが、彼女の重要な持ち物であるはずのカメラやメモなど一切の記録が失われていた。

Berlingske Tidende,
Copenhagen, Denmark

ここで読者は、犠牲者がなぜ北欧出身でなければならなかったか、という疑問を持つかも知れない。筆者の考える理由は、作者コナリーが(失礼ながら)”Snow White”のネーミングに見られる通り意外にロマンティストであることを除けば、ある登場人物が作中で述べる「ほんもののブロンド(女性)」という一つの言葉にヒントがある、とだけお伝えしておこう。なお、ベアリンスケ・ティズネ(Berlingske Tidende)は1749年にコペンハーゲンで創立された”世界最古の新聞”の一つであり、多くの賞を受賞した由緒正しい新聞社であることから、そこに元記者であるコナリーの敬意が感じられないこともない。現在は単に”Berlingske”と名前を変えており、また”BT”という似た名前のタブロイド紙も別にある(ささいなことだが、本作では両紙がやや混同されている気もする)。

本作の犠牲者が北欧人である必然性は別として、「白人」であることには若干の意味がある。LAPDとしては、メディアから暴動20周年の報道取材を受けるにあたって、当時の未解決事件は(犠牲者の人種等で選別されるといったこともなく)専任班によって適切に捜査されている、と発表したい意向があった。そのため、ボッシュが「一人の白人被害者」に拘っているところに、本部長が圧力をかける。シリーズ読者にはすぐそれと分かる「ハイ・ジンゴ(“High Jingo”)」の一種である。そのことに関連して、本作ではシリーズに欠かせない「小さな器の上司」が新たに着任し、年長の反抗的部下であるボッシュに対して執拗に圧力を加え、最後には、予想された通りの結果となって読者の失笑を買うといった名(迷)脇役を演じている。(ハイ・ジンゴについては、こちらを参照

転落の街(下) (講談社文庫)転落の街(上) (講談社文庫)本部長登場のついでながら、ボッシュの元パートナーであるキズミン・ライダーの消息も伝えられている。ボッシュは、前作(転落の街;The Drop)で、LAPD批判の先鋒に立っていた市議会議員との不実な政争に巻き込まれ、本部長と信頼していたキズミンに利用されてしまった。彼女はその折の功績もあって、いまやウエスト・ヴァレー署の警部(Captain)に昇進しているのだが、ボッシュとは絶交状態が続いている。(コナリーがその気になってくれることが前提だが)いずれ機会があれば、彼女がその後どのように活躍しているかを書くこともあるだろう。(「キズミン〈キズ〉・ライダー その1」、「同 その2」を参照)

さて、この記事シリーズで筆者は、ミステリーとしての核心部分には触れず、主に作品を楽しむための”Tips”をお伝えしている。本作も同様にさらりと紹介すればいいと感じていたのだが、書き始めてみると意外に話題性が多く、スペースが足りなくなってしまった。そこで、書き残しは次回に振り分けることをお許しいただきたい。次回は、プロットと人物の両面からシリーズの流れを捉えていただくため、上で述べた以外の2、3の女性たちについて、また、メイン・プロットからほぼ独立して描かれるボッシュの家庭生活(と言えばお分かりになるであろう・・)に触れるとともに、やや蛇足ながら、筆者が興味を持ち続けている地理的な舞台背景なども併せてご紹介したい。また本作では、コナリーが読者サービスのつもりか、あるいは自分自身の嗜好を書き足しただけなのか不明だが、いつも以上に多くの楽曲が登場する。それらについては、例によって「ボッシュ・シリーズと音楽 その17」で紹介させていただく。

ブラックボックス その2 につづく。

転落の街 The Drop

Hong Kong

マイクル・コナリーは2009年の「ナイン・ドラゴンズ」で、ハリー・ボッシュ・シリーズに織り込まれていた主要プロットの一部を強制的に、まったく別の方向へとシフトしてしまった。シリーズのそれまでの延長線上で、難事件を追いながらも淡々と残された年数を過ごし、LAPDの一刑事という天職を全うするのだろう。そんなボッシュの後半生を想像していた読者もいたに違いないが、「ナイン・ドラゴンズ」はあらゆる意味で衝撃的な作品となり、少なくとも「ボッシュ(あるいはシリーズ)がこれからどうなる?」ということについて、単なる期待と不安以上の関心を呼び起こすことに成功した。

ボッシュはその後「判決破棄」(2010年)でミッキー・ハラーを助け、「証言拒否」(2011年)でも少しだけ顔を見せてはいたが、長年にわたってボッシュを追いかけ、シリーズを知り尽くした読者がその程度に満足するわけがない・・・ということで本作は、ボッシュが2年ぶりに「読者のもとに帰ってきた」シリーズ正編作品である。2010年11月、ボッシュはRHDの未解決事件班(the Open-Unsolved Unit; 別名ではthe Cold Case Special Section)に戻り、「三合会」の捜査で知り合ったディヴィッド・チュー(David Chu)と組んでいる。本作の時点は2011年10月初めで、ボッシュは61歳。「DROP; Deferred Retirement Option Plan」という制度を使って定年を延長し、39ヵ月後(2014年12月)に退職予定という立場になっている。

転落の街(下) (講談社文庫)転落の街(上) (講談社文庫)僭越ながら、シリーズ愛読者も本作の痒いところに手がとどくような出来映えには満足するだろう。原題の”The Drop”には、ボッシュに適用された定年延長制度の名称のほか、ある事件で分析された血痕=滴(しずく;drop)、もう一つの事件の発端であるホテル高層階からの転落(drop)という三重の意味がこめられている。ボッシュは、残り少ない刑事人生についてかれなりの感慨を抱きながら、同時並行でふたつの重要事件を捜査していく。作者コナリーは、未解決事件の新証拠として扱われることの多いDNAの二重螺旋イメージから連想し、「撚り合わせながらも、おたがいにけっして触れあわないふたつの異なる物語」をメインに据えて描こうとしたのである。

そればかりではない。コナリーはもっと驚くべきことに、メイン・ストーリーの絶妙な合間を縫って「その後あの話はどうなったか」というまさに読者の知りたかった情報を過不足なく、また違和感なく挿入することに成功している。すなわち、ボッシュと快活になった娘マディとのほほえましい生活ぶり、アーヴィン・アーヴィング(元LAPD副本部長)との確執の延長戦、また、出世階段を上りつつあるキズ・ライダーの成長(?)、若いアジア系パートナーとの師弟関係、はたまた新たな女性との出会い(!)など、数々の新たなエピソードがマルチ・レイヤーとして重層的に描かれている。長年のファンを自認する方々ならば、本作で、コナリーのいつもながら読者を飽きさせないサービス精神と、いまだ進化中の創作技術をうれしい驚きとともに再発見するだろう。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

また、本作の背景には、ウッドロー・ウィルソン・ドライブのボッシュの自宅や、ハリウッド署のオフィス(ジェリー・エドガーの机にボッシュがいたずらする場面付き)、その他すでにお馴染みとなっているLAの名所が描かれて懐かしさを覚えるとともに、ボッシュのジャズ好きがマディに伝染したと思われる場面などから、本シリーズに彩りを与えてきた音楽世界もまた健在であることが確認できる。ミッキー・ハラーの元妻で検事補、マギー・マクファースンの消息もさりげなく明かされている。それらのエピソードや人物、背景などの見逃せない部分については、別の記事であらためてご紹介することにしたい。とくに、娘マディと、キズ・ライダーの深掘りは欠かせないだろう。本作の音楽については、こちらの「ボッシュ・シリーズと音楽 その16」をどうぞ。

Hollywood All Star Sessionsボッシュがどのように難事件を解決していくか。本作でもそこが最も興味深いことは当然だが、シリーズ愛読者としては(筆者を含め)、60歳を越えてLAPDを永久に去る日が定まったボッシュの心境も気になるところである。物語が始まると、早速こんな場面に出くわす。一つ目の現場で、床から立ち上がろうとしたボッシュの「膝の関節がポキンと鳴った」のである。かれは「自分にまだ刑事としての鋭さがあるかどうか、バッジと銃を所持するに値するかどうか」を日頃から疑うようになっていたが、それに加え、本作ではきわめつけの「ハイ・ジンゴ(公正な事件捜査にあるまじき濃厚な政治色*)」に遭遇し、とうとう残り39ヵ月を走り切る自信さえ失いかけてしまう。(*:ボッシュ・シリーズと音楽 その9 を参照)

しかし、意外にナイーブで動揺しがちな部分もボッシュらしいが、いずれ「初心に還る」ところがボッシュの真骨頂である。今回も「どれほど失敗をしようと、使命は終わら」ず、「つねに使命はそこにあり、つねにやらねばならない仕事がある」と、ドラマの中であらためて決意を示す。その結果、最終的には、ボッシュの雇用延長期間として最大値(2016年5月までの5年弱)が認められことになる。「まだ書き続けていきたいと望んでいる」作者コナリーが決めたことに違いないのだが、一読者としてひとまずホッとせずにはいられない。コナリーの野心的なプロット・シフトによって、ハリー・ボッシュ・シリーズがここ当分は楽しめると保証されたことは朗報だ。

なお本作では、「だれもが価値がある、さもなければだれも価値がない (Everybody counts or nobody counts)」という、知る人ぞ知る状態であったボッシュの信条が、物語のなかでひとり歩きする。長年の宿敵であるアーヴィン・アーヴィングが、どこで聞いたのか、そのフレーズを持ち出してボッシュに事件の捜査を強いるところはひねりが効いていて面白い。

Chateau Marmont Hotel — on the Sunset Strip in West Hollywood

余談であるが、「転落」の一つの現場となったシャトー・マーモント・ホテル(the Chateau Marmont Hotel in West Hollywood)は、作者コナリーのお気に入りの一つとのこと。現在かれはLAに住んでおらず、フロリダのタンパから取材や執筆のためにLAを訪れる日々を送っている。そして、しばしば実際にシャトー・マーモントの79号室に滞在し、そこを本作の事件現場に採用したことをインタヴューで語っている。こうして、ハリー・ボッシュ・ツアーの新名所がまた一つ増えたのも楽しい。

ナイトホークス The Black Echo

LAPDの強盗殺人課(RHD)で8年間のキャリアを誇るハリー・ボッシュだったが、武器を持たない容疑者を殺したと追求され、ハリウッド署に左遷されていた。パイプの中で不審死を遂げた男の事件を担当することになったところで、意外な事実に出くわす。死んだ男はベトナムでの戦友メドーズだったのだ。ボッシュは、心理的な戦争後遺症に悩まされつつ、事件の真相を探ろうとするが、FBIや内務監査課の妨害を受け捜査からはずされてしまう。メドーズは銀行強盗事件の有力容疑者だったのだ。

The Black Echo US実際にロサンジェルスで起きた事件の一部を題材とした本作は、初版わずか15,000部で全米の広告露出がなかったにも拘らず、各書評で非常に高い評価を得る。さらに、1993年度のアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞(MWA賞)処女長編賞を獲得して、コナリーの作家デビューを飾った。

主人公の本名はヒエロニムス・ボッシュ(Hieronymus Bosch)といい、中世フランドルの画家と同姓同名である。名付けた母親は画家ボッシュのある複製画を持っていたが、のちにそれはボッシュに受け継がれ、かれの自宅の廊下に掛かっているのを訪れたある人物が見出す、というシーンが本作に描かれている。母親が「ヒエロニムス・ボッシュ」という名前を息子につけた理由はなにか。

そのことを含めて、ボッシュ自身が「自分はなにものか」を探し出す物語が、これからのシリーズに引き継がれていく。そうした主人公のこころの旅は、かれがひとつひとつの殺人事件に立ち向かい、解明していく本筋のプロットと複雑に絡み合いながら進行するので、どうか注意していただきたい。ボッシュの名前の由来について早読みする場合はこちらを参照。「ヒエロニムス・ボッシュ」の秘密

本作は「ポスト・ベトナム」の後遺症が一つのテーマだが、ボッシュ自身の受けとめ方は、次のように描かれている。「・・・しかし多くの人々は、いまだに心に傷を負っているものの、自分なりに折り合いをつけながら、日常的な生活を送っているのではないだろうか。ハリーの生き方はそれに近い。いまだに戦争の夢に悩まされ、眠れぬ夜を過ごしているが、もとにもどすすべはないとして、折り合いをつけて生きている」(「ナイトホークス」解説; 穂井田直美氏)

本作はもとより、新たなハード・ボイルドの地平を拓いた作品と位置付けできるであろう。ただ、次作以降は、徐々にハード・ボイルドとは異なる要素を加えたり、作品の建て付けに工夫を凝らしたり、といったような作家コナリーの意欲も何となく感じるところだ。とはいえ、本作に限ると、コナリーは画家ボッシュの絵に加えて、あるもう一枚の絵画作品を重要なモチーフとして取り上げ、ハード・ボイルドの雰囲気をいろ濃く醸し出している。

ナイトホークス(夜ふかしをする人たち) エドワード・ホッパー
ナイトホークス(夜ふかしをする人たち) エドワード・ホッパー

その絵画作品とは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス(=夜ふかしをする人たち; Nighthawks)」である。この絵のイメージが、おそらく本作をぴったり象徴しているということから、絵のタイトルがそのまま邦題にも採用された。「ナイトホークス」とは「孤独な夜の鷹」、すなわち「夜ふかしをする人たち」である。

ある街角の夜ふけのダイナー。閑散とした店のカウンターに、ひと組のカップルが寄り添い、手前には一人の男が物思いに沈む体(てい)で背中を見せている。店員は自分の仕事にいそしむ。店の向こう側はガラスを通して、真っ暗な空間が占めている。鑑賞者は、店の外の少し離れた場所からそんな寂しい光景を眺めている。ボッシュは作中で、その内の一人で座っている男をボッシュ自身とみなすのである。自分こそ「孤独な夜の鷹=ナイトホークス」であると。ホッパー作品との関連について、詳しくはこちら。

エドワード・ホッパー/ナイトホークス 額装ポスター artposters


ブラック・アイス The Black Ice

1992年12月、ボッシュ42歳。麻薬課の刑事ムーアの死体がモーテルで発見された。一見、ショットガンによる自殺と判断できる状況であったが、検視によって偽装と判明する。ボッシュはひそかに事件を追うが、ムーアの身辺を洗った結果、事件の背後に新種の麻薬「ブラック・アイス」をめぐる麻薬組織の抗争が絡んでいたことを突き止める。ボッシュはさらなる手がかりを得るべく、麻薬王ソリージョのいるメキシコへと向かう。

chainlink-691921_960_720前半では複数の地道な事件捜査を並行して描き、後半からメキシコを舞台にしたアクションの要素を強めつつ、ラストの巧みな謎解きへとダイナミックに展開していく。ボッシュは、客観的な観察者として、事件関係者の心の暗部を探っていくが、自分自身の内面と向き合うことをけして忘れることはない。

本作の鍵となる部分は、死亡したムーアが遺したただ一行のことばである。「おれは自分がなにものかわかった」と記してあった。事件の手がかりであると同時に、「自分がなにものか」こそボッシュ自身につきつけられた言葉であった。捜査を続けながら、つねにこの言葉を意識する。そして、かつてボッシュが、自分の出生を調査し、実の父親を探し当てた経緯を述べるシーンへとつながっていく。

child-698591_960_720-2過去を回想するシーンのなかでは、母親の死を聞いた日に、プールの底深くにもぐって声をあげて泣く11歳のボッシュ少年も描かれる。また、ボッシュは、麻薬を密売する少年たちを見て、自分自身が養護施設で過ごした記憶を蘇えらせる。そのときに何度も感じた、「まじりっけなしの恐怖と、悲鳴をあげたいほどの孤独」を思い出すのであった。

本作は、ファルコン賞ハードボイルド大賞(日本マルタの鷹協会)を受賞した。なお、解説の関口苑生氏は次のようなエピソードを紹介している。本作刊行の当時、ミステリー好きとして知られるビル・クリントン大統領もこれを読んで非常に気に入り、続く第3作を出版前にねだって読むなどシリーズへの関心を昂じさせたうえ、ついには著者コナリーとの会見に及んだとのことである。