贖罪の街 The Crossing その1

本作「贖罪の街(The Crossing)」で描かれている時期は2015年5月ごろと推定されるが、そのころ、ボッシュはすでにLAPDを引退し、自分の生まれた年と同じ1950年製の「リー・マーヴィンが〈乱暴者〉で乗っていたような」ハーレーダビッドソンのレストアに取り組み始めていた。傍目には羨ましく見える引退生活だが、長年仕事にのめり込んできた本人にとっては、辛いというほどでないにせよ、さほど楽しいはずもない。なぜこんなことになったのか? 前作のエンディングを思い起こしてみよう。

映画〈乱暴者〉で使用されたバイクのレプリカ: 
Photo by Midnight bird – La Triumph Thunderbird del film “Il Selvaggio; The Wild One” (2011) / CC BY-SA 3.0

およそ半年前、2014年の暮れ近く、ボツシュは事件捜査の過程で、1993年以来の強盗記録を見ようとして、ある警部のオフィス・ドアをピッキングした(「燃える部屋;The Burning Room」)。それ自体はささいな違反行為であったが、ボツシュはLAPDから無給の停職処分を受け、さらに、本来ならば穏やかに引退を待つ身から一転して、解雇につながりかねないことになった。ボッシュとしては、きわめて不愉快な懲戒プロセスに耐えたくはないし、また娘マディ(マデリン)の大学への入学資金を心配した事情もあって、自ら不本意な退職を選ばざるを得なかった。

ボッシュは、一時的な休退職期間を引き、定年延長を足すなどして筆者がざっと計算したところでは、通算38年と数ヶ月にわたってLAPDに奉職した。”引退”は人生の一大イベントに違いないが、「そうした瞬間は意外にあっけなく訪れる」といった法則があるのかも知れない。もっとも、組織に反抗的なボッシュの仕事ぶりを見れば、ずっと早くに辞めていたり、リストラに遭っていても全然ふしぎではなかった。ただ、ボッシュとすれば悔しく、納得できないし、より重要な問題としては経済的に立ち行かない。そこで、異母弟にして刑事弁護士のミッキー・ハラーを頼み、LAPDを不当解雇で訴えることにしたのだった。

いうまでもなく、ボッシュとハラーは裁判所の通路のそれぞれ反対側に属している。しかし、互いを必要とするときには助け合っており、ハラーはボッシュの依頼を引き受ける。ただ、今回はハラーの方にも事情があって、必ずしもギブ・アンド・テイクという訳ではないだろうが、ある殺人事件で訴追されたクライアントの弁護を助けてほしいとボッシュに頼み込む。ハラーはクライアントの無実を信じており、今回だけでも通路を渡って(クロッシング;crossing)こちら側にきてほしいとボッシュに求めたのである。ここまでが本作のイントロ(前奏部分)だが、コナリー・ファンの多くは、すでにここで波乱含みの主題が提示されたことに気づくだろう。

ボッシュとハラーの付き合いは「真鍮の評決(The Brass Verdict)」以来だが、兄弟とはいえ常に遠慮がちなところがあった。ふたりには異なる生い立ちや性格に加え、職業上、互いに超えられない一線が存在したからである。ボッシュは当然のこととして、ハラーからの依頼を強い調子で断る。

「おれがきみのために事件を調べたとする――きみだけじゃなく、どの刑事弁護士でもおなじなんだが――すると、おれがバッジでやってきたあらゆることが台無しになってしまうんだ(中略)・・・わかるか?ダークサイドヘ渡った(クロッシング)ことになるんだ」 (下線は筆者)

ハラーのほうも諦めない。まずは殺人事件調書を見て、クライアントが無実かどうか確かめてほしいとボッシュに懇願する。客観的には、ボッシュが引き受けなければならない理由は希薄であり、引き受けた場合のリスクは破壊的に大きいと分かっている(実際に、あとで問題となる!)。しかし、ハラーの信ずる通りなら真犯人は別に存在し、そんな状況を黙って見過ごしておけるボッシュではなかった。なんとなく躊躇しながらも、しだいにボッシュはこの事件に取り組む自らを合理化し、一線を越える(クロッシング)ことになる。これが本作の主題だ。

作者コナリーは、リアルタイムで老化し、60代半ばに達するボッシュにどのような新しい方向性があり得るかを模索する中で、かれがハラーのチームに本格合流するアイディアを早くから仕込み、適切な時期までじっくり熟成させ、ようやく本作で栓を抜いてみせたのだと筆者には思える。もしこれが優れて個性的な2種のシングル・モルトなら、わざわざブレンドしたりする必要はなく、小説の主人公もそれと同じと考える保守派もいらっしゃるだろう。しかし筆者の場合、多少のリスクを承知の上というか、むしろ過激な化学反応が起こることを期待して、異質な素材をブレンドしてみせたコナリーの作家センスを支持したい気がするし、また、その成功を一ファンとして喜びたいと思う。

”クロッシング(crossing)”には、本作の主題である「横切る」「一線を超える」という意味のほか、「交差(する)、交差点、交雑、反対・妨害」といった意味があり、本作で描かれるさまざまな事象は、見事なほど、このタイトルの一語に集約されていることがわかる。たとえば、本質的に異なるボッシュとハラーの視野・視線の交差、あるいは殺人者と被害者の交差、ダーク・サイドに渡った(ボッシュとは別の)悪徳警官のふるまい、同級生となるマディとヘイリーの将来、そのほかにも登場する人物たちが互いに遭遇する場所、そしてLAの現存する交差点・・・などなど。ひとつ、ボッシュとハラーの会話から具体例を拾ってみよう。ボッシュは、被害者の生活を表すサークル(円)が殺人者の行動サークルと重なる場所=交差点(クロツシング)を見つけようとしており、それについてハラーに説明する場面がある。

「検察側の主張で最大の問題はなんだ?」(中略)
「交差(クロツシング)だ」
「その意味は?」
「動機と機会だ。連中はDNAを掴んでおり、それがきみの依頼人を被害者宅と事件現場に結びつけている。だが、どうやって依頼人はあそこへたどり着いたんだ?なぜあそこへいったんだ?」

贖罪の街 その2 につづく