ボッシュ、ベトナムに従軍する

ボッシュは17歳のとき、金目当てで自分をサウスポー投手にしようとした里親の家から逃げ出し、しばらくの間、LA南部沿岸のサン・ペドロ辺りで浮浪者のように過ごす。そのためかれは高校を卒業できず、のちにGED(General Educational Development; 高校卒業程度を認定する資格)を取得することになる。

Vietnam War_Napalmその後1968年、18歳のとき、ボッシュは自ら志願して陸軍第一歩兵隊に入隊し、1969年から70年にかけてベトナムに従軍する。ベトナムでは地下壕探索兵(”tunnel-rat”;トンネル・ラット、トンネル・ネズミ)としてベトコンと渡り合い、そこで腰の左側にナイフ傷を負ったり、またある作戦では小隊4名のうちただ一人の生き残りとなる。

ボッシュは復員後、ほかの帰還兵と同じようにPTSD(Post Traumatic Stress Disorder; 心的外傷後ストレス障害)を抱える。自分自身に障害という意識はうすいようだが、その後永年にわたり不眠症に悩まされることになる。幼少年期のトラウマとあいまって、かれの心理と生き方そのものに深い影響を及ぼすことは避けられないであろう。

The Tunnels of Cu Chi by Tom Mangold and John Penycate Publisher: Presidio Press
The Tunnels of Cu Chi
by Tom Mangold and John Penycate
Publisher: Presidio Press

作者コナリーは、ハリー・ボッシュにあえてトンネル・ラットの苛酷な体験を負わせることにしたきっかけについて、次のように紹介している。「トム・マンゴールドとジョン・ペニーケイト著、”The Tunnels of Cu Chi”(クーチ郡のトンネル)という本に出会ったのだ。ベトナム戦争のトンネル・ラットの実体験を綴った胸の痛む記録だ。この木を読んで初めて、ピアスのトンネル・ラットとしての背景と繰り返し訪れる夢が完全に形になった」(マイクル・コナリー; 「ヒエロニムス・ボッシュ」三角和代訳、ミステリマガジン2010年7月号より)

ボッシュは、「・・・『ポスト・ベトナム』の烙印を背負った時代の子でもあることを忘れるわけにはいかない。その時代と社会の函数ともいうべき彼の性格の特異性にこそ、このシリーズのすぐれて文明批評的な特長があったはずだからである」(郷原宏; 「夜より暗き閣をゆく最後のコヨーテ; マイクル・コナリー賛歌」 ミステリマガジン2010年7月号より)

ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)「しかし多くの人々は、いまだに心に傷を負っているものの、自分なりに折り合いをつけながら、日常的な生活を送っているのではないだろうか。ハリーの生き方はそれに近い。いまだに戦争の夢に悩まされ、眠れぬ夜を過ごしているが、もとにもどすすべはないとして、折り合いをつけて生きている」(「ナイトホークス」解説; 穂井田直美氏)

なお、スティーヴン・ハンターの初期の代表作、「真夜中のデッド・リミット(The Day Before Midnight)」では、ボッシュと同じような体験をもつトンネル・ラットが大活躍する。アメリカ・メリーランド州の山中で謎の集団に占拠された核ミサイル基地を奪回するため、ふたりのトンネル・ラット、ベトナム帰還兵と元ベトコン女性戦士が協力し、基地への侵入に挑む。軍事サスペンス、冒険小説の大傑作だ。



ボッシュの履歴書(1) 警察官となる

LA_city-skyline-719961_960_7201970年の夏、ハリー・ボッシュは除隊してロサンジェルスに戻ってくる。かれは、生い立ちのトラウマに加えて、苛酷な戦争体験の記憶に苛まれるようになっていたが、思いは自分自身の失われたアイデンティティの探求に向かう。

それまで別段、気にもしていなかった自分の出生について調べ始め、やがてある人物が実の父親であるとの確証に行きつくのである。ボッシュは父親との面会を果たすが、父親は末期癌を患っており、面会後、あまり日をおかずに死去する。これらの経緯は「ブラックアイス(The Black Ice)」の中で明かされる。

アイデンティティの重要な一部を確認したボッシュはその後、1年半ほどの期間を警察官になるための準備に費やしたであろう。かれは軍隊をやめ、なぜ警察に入ろうとしたのか。どのような動機があったのか。詳しくは、「ボッシュ人物論(2)・(3)」を参照。

ここはまず、作者コナリーに語ってもらおう。「ベトナムからもどった彼は、またもや重荷を扱う組織に参加する。警察だ。兵士は刑事になり、殺人事件を解決することで母のかたきを繰り返しうつのだ――特に女性の。

そこがこのキャラクラーの要だ。心に抱える幼い頃のトラウマによってこの刑事は駆りたてられる。この一面があれば、彼が手がける事件はどれも仕事ではなく、個人的な領域に踏み込むものになるだろう」(マイクル・コナリー; 「ヒエロニムス・ボッシュ」三角和代訳、ミステリマガジン2010年7月号より)

ボッシュの母親は、かれが11歳のとき、何者かに殺害された。未解決に終わったこの事件こそ、ボッシュが警察官を志望する出発点だったのである。そして、1972年8月、ボッシュは、警察官に採用された。しかし、小説ハリー・ボッシュ・シリーズは、かれが刑事に昇格するまでは始まらない。

ボッシュの履歴書(2)につづく。

ボッシュの履歴書(2) RHDへの抜擢

Badge_of_LAPDボッシュは、ハリウッド署(Hollywood Division)とウィルシャー署(Wilshire Div.)において、1972年から5年ほどパトロール警官を務め、その間にさまざまな経験を積んでいったと推察される。

新米のボッシュが初めて遭遇した大事件といえば、パトリシア・ハースト誘拐後の1974年5月にLAサウスセントラルで発生した、SLA(Symbionese Liberation Army; シンバイオニーズ解放軍)に対する銃撃戦であったろう。

Parker Center, LAPD Los Angels
Parker Center, LAPD
Los angeles

ボッシュは1977年に刑事昇格試験に合格し、その後みるみる頭角を現していく。ヴァン・ナイス署(Van Nuys Div.)の強盗課と窃盗課、ノース・ハリウッド署(North Hollywood Div.)の殺人課を経て、1982年、ついにエリート部門である市警本部(LAPD)強盗殺人課(Robbery-Homicide Division; RHD)に抜擢され、それから8年間をそこで過ごすことになる。

RHD に所属していたある時期、ボッシュは、ロサンジェルスの美容院店主ばかりを狙った連続殺人事件の捜査を任され解決に導く。この事件はのちにLAタイムズのレポーターによって本となり、また何とユニバーサル・スタジオがTVのミニシリーズとして製作することになった。

刑事ボッシュはそれらの実在モデルとして、5万ドルという思いがけない報酬を手にし、これを頭金にしてすてきな自宅を購入する。1984年のことである。この家はその後、本シリーズにほぼ毎回登場し、仕事でボロボロに疲れたボッシュやそのパートナーを癒す、重要なロケーションとなっていくのである。(自宅について詳しくはこちら。「ウッドロー・ウィルソン・ドライブの自宅」)

ボッシュの履歴書(3)につづく。

ボッシュの履歴書(3) 自分さがしの軌跡

ブラック・アイス (扶桑社ミステリー)1970年夏、ベトナムから帰還したボッシュの思いは、自分自身の失われたアイデンティティに向かう。それまで別段、気にもしていなかった自分の出生について調べ始め、やがてある人物が実の父親であるとの確証に行きつく。その経緯は「ブラックアイス(The Black Ice)」の回想の中で明かされる。しかし、その時点の若きボッシュは、母親の死の謎に思い至ることはできず、かれが成長してそのことに取り組むまで10数年を要することになる。

LA_black-and-white-1115389_960_7201982年以来、LAPDのエリート部門である強盗殺人課(RHD)で順調にキャリアを積んできたボッシュだったが、1989年の連続殺人事件(「ドールメイカー事件」)で、つまずいてしまう。容疑者を追っていたボッシュは、ある男の部屋を急襲したところ、男が枕の下に手を伸ばしたのを見て射殺した。ところが、枕の下に武器は無く、カツラしかなかったのである。

結果的に男はその事件の犯人であったのだが、ボッシュは、武器を持たない容疑者を殺したとして内務監査課に追求され、やがて22日間の無給停職処分ののち、市警の”下水”と呼ばれるハリウッド署(Hollywood Division)に左遷されてしまう。なお、ドールメイカー事件の少し前、ボッシュはFBI捜査官、テリー・マッケイレブ(Terrell “Terry” McCaleb)と初めて出会っている。

ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)1990年5月のある日、ハリウッド署刑事として勤務する40歳のボッシュ。「ナイトホークス(The Black Echo)」の冒頭である。ハリー・ボッシュ・シリーズの現在進行形のドラマは、この時点からスタートする。これ以前の過去に起こった物語やイベントは、主人公ハリー・ボッシュの回想と、かれが自分のアイデンティティを求めて過去を探求する行動から次第に明かされてく。

「ナイトホークス」の事件で、ボッシュは運命の女性、エレノア・ウィッシュ(Eleanor Wish)に出会う。また、相棒のジェリー・エドガー(Jerry “Jed” Edgar)とキズミン・ライダー(Kizmin “Kiz” Rider)、のちに警察内部で確執の相手となっていくアーヴィン・アーヴィング(Irvin S. Irving)が登場する。ボッシュは事件で肩に銃創を受け、メキシコで6週間の休暇を過ごす。

2,000 California Army National Guardsmen patrolled the city to enforce the law in the 1992 Los Angeles riots.
2,000 California Army National Guardsmen patrolled the city to enforce the law in the 1992 Los Angeles riots.

1992年4月29日、ロサンジェルス暴動が勃発。黒人男性ロドニー・キングに対するLAPDの警官による暴行事件の裁判で、被告警官が無罪評決を受け、これを発火点として暴徒が商店を襲撃し、放火・略奪を行うなど大規模な暴動に拡大した。死者53人、負傷者は約2,000人、放火3,600件、建物の崩壊1,100棟に及び、1万人の逮捕者を出した。うち黒人は42%、ヒスパニック44%、白人が9%だった。

この背景には、人種間の根深い差別と緊張に加え、黒人の高い失業率、LAPDによる黒人への恒常的な圧力、韓国人店主による黒人少女(ラターシャ・ハーリンズ)射殺事件など、サウスセントラルの黒人社会に積もりつもった怒りがあった。そこに、ロドニー・キング事件の評決が火をつけたのである。

1992年12月、ボッシュ42歳。「ブラックアイス(The Black Ice)」事件。その前の4ヵ月問、当時、検屍局局長代理だったテレサ・コラソン(Teresa Corazón)とつきあっていたが関係は悪化する。同僚刑事の未亡人、シルヴィア・ムーア(Sylvia Moore)と知り合う。

1993年11月ブラック・ハート〈下〉 (扶桑社ミステリー)ブラック・ハート〈上〉 (扶桑社ミステリー)、「ブラック・ハート(The Concrete Blonde)」における法廷での戦いと、関連する新たな事件。4年前にボッシュが犯人を射殺し、ドールメイカー(Dollmaker)事件は終息したはずであったが、犯人の未亡人が「夫は無実」としてボッシュを告訴した。その矢先、新たな被害者が発見される。

1994年1月、ロサンジェルス地震が発生し、ボッシュの自宅も被害を受ける(「ボッシュ、LA地震で自宅が半壊」を参照)。その3ヵ月後、シルヴィアとも自然に別れる。そんななか、ボッシュはあるトラブルから上司のハーヴェイ・パウンズ(Harvey “Ninety-Eight” Pounds)に暴行を働いたことで、強制休職処分となる。

ボッシュは、精神分析医のカーメン・イノーホス(Carmen Hinojos)のカウンセリングを受けながら、この期間を利用して、ずっと心の片隅に残っていた33年前の母親殺害事件を調べる。この「ラスト・コヨーテ(The Last Coyote)」の事件によって、ボッシュがそれまで、「自分はなにものであるのか」を探し続けてきた旅にひとつの区切りがつけられる。

ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)ラスト・コヨーテ〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

 

ボッシュの履歴書(4)につづく。

ボッシュの履歴書(4) 左遷からのスタート

1990年5月、LAPDの「下水」と揶揄されるハリウッド署。そこに刑事として勤務する、40歳のハリー・ボッシュ。かれの物語は、いきなり左遷された職場からスタートする。第1作「ナイトホークス(The Black Echo)」の冒頭である。

LA_hollywood-682851_960_720ボッシュは、そこらにいる大勢の刑事とおなじ、ではもちろんない。ただけして超人的ヒーローではなく、ダーティ・ハリーほどの型破りでもない。基本的な仕事スタイルは「現場主義」とか「地道な捜査」と形容でき、実際の刑事たちが行っている捜査方法と違わない。つまり仕事ぶりという意味では、ボッシュは優秀であり、語感としての違和感が少しあるものの「敏腕刑事」と呼んでいいかも知れない。

しかし、「地道」や「敏腕刑事」と少なからず矛盾するようだが、周囲から見れば「問題児」であることも確かなのである。他人と馴れあうことを潔しとせず、組織のなかで衝突やあつれきが絶えない。だから、休職処分や左遷といった憂き目にもよく遭っている。ただ、そういうボッシュにも誰かしら応援者はいて、まったくの孤立無援でもない。

このように説明しようとすればするほど、真のハリー・ボッシュはどんどん遠ざかっていくような気がする。とりあえず、警察組織のなかで悪戦苦闘する刑事、とでもしておくほかないだろう。「ボッシュ人物論(3)どのような警察官か」で、詳しく検証する。

「このシリーズは厳密な意味での警察小説ではない。少なくともエド・マクベインの〈87分署〉が警察小説の典型だという意味では警察小説ではない。ボッシュは警察官には違いないが、その行動原理は大方の私立探偵と同じく反組織的自立主義で、集団的な捜査活動に参加するわけではないからである」(郷原宏;「夜より暗き閣をゆく最後のコヨーテ ― マイクル・コナリー賛歌」、ミステリマガジン2010年7月号より)

なお本作で、主人公ボッシュは、運命の女性となるエレノア・ウィッシ(Eleanor Wish)に出会う。

ボッシュの履歴書(5)につづく。