2009年9月、ボッシュ59歳。サウス・セントラルの中国系酒販店主の殺害現場に赴いてみると、ボッシュは被害者に見覚えがあった(「エンジェルズ・フライト」のラスト近くを参照)。ACU(the Asian Crimes Unit;アジア系犯罪捜査班)とともに捜査を進めるうち、背後で中国系犯罪組織「三合会 (Triad)」が関わっている可能性が浮上する。
ボッシュは報復を恐れずに捜査を進めるが、強力な容疑者を確保した直後、母親とともに香港に住む娘のマディが監禁された映像が届く。ボッシュは娘を救出すべく、39時間の行動猶予を得て、「三合会」の本拠地でもある香港に飛ぶ。本シリーズで初めて主人公が海を渡る瞬間であり、リーアム・ニーソンのアクション映画「96時間」を彷彿とさせるような展開で、舞台はLAから香港に移る。
ボッシュは、マディの母親で前妻のエレノア・ウィッシュと彼女を守るサン・イーの力を借りて、街中を必死に捜索する。かれらは唯一の手掛かりである娘の映像の背景分析から、九龍のどこかにある監禁場所をつきとめてゆくが・・・。ボッシュは果たして娘を救えるのか?
LAでの酒販店主殺害を発端として、香港では家族が巻き込まれ、ボッシュの果敢な捜索によって事件の意外な相貌が明かされてゆくのだが、ボッシュらに突然襲いかかる悲劇の瞬間を避けることは誰にもできなかったであろう。事態は、地元の法執行機関が動き出す直前に、ボッシュがマディを伴って香港を離れ、物語の完結を待つのみとなる。
LAに帰還後、ボッシュが香港から来た刑事の尋問を受ける際には、異母弟ミッキー・ハラーがかれを助ける。ボッシュとマディ、ボッシュとハラー、というふたつの関係性がコナリーの作品世界に強固な軸、あるいは土台を築こうとしている。これから、ボッシュの年齢が次第に読者の懸念事項となっていくことが明白なだけに、この新しい家族のつながりが将来にわたる作品の持続性を担保していることはまことに大きい。
本作の解説のなかで、古沢嘉通氏がコナリー自身の解説を訳していただいているので、氏に倣い、そのまま紹介したいと思う。小文のタイトルは「わたしが『ナイン・ドラゴンズ』を書いた理由」(マイクル・コナリー)である。
「『ナイン・ドラゴンズ』は形にするまで長い時間がかかった。ハリー・ボッシュの人生という旅において極めて重要な物語である。わたしにしてはいつもよりアクション多めの本であるだけでなく、『暗く聖なる夜』を書いていた7年ほどまえに着想を得、人物造形に大きく重点を置いた物語でもある。『暗く聖なる夜』で、ハリーは生涯最大の驚きに出くわす。自分に子どもがいることを知り、はじめて娘のマデリンと出会う。ハリーの人生にこの若い登場人物を加えるのは、熟慮の末、だった。
その時点までは、ボッシュ・シリーズでわたしが描いてきたのは、使命を負っている自覚を持つ人物だった。ハリーはニーチェの言う深淵に入りこんで、怪物すなわち邪悪な人間を探しだすに足る能力と強靭な精神力を持つ人物だった。この使命を遂行するため、自分は妥協をせず、付け入る隙がない(bulletproof)人間であらねばならないとハリーはわかっていた。防弾(bulletproof)という言葉で言いたかったのは、ハリーが弱みのない人間でなければならないということだ。だれもハリーには影響を及ぼせない。そうでなければ、妥協をしない人間でいられるわけがない。そしてこの考えあるいは信念が彼の生活のあらゆる面に染みついている。ハリーはひとりで暮らし、友人を持たず、近所の人間のことを知りもしていない。だれも自分に影響を与えられないよう孤独な人生を築いた。
『暗く聖なる夜』で、娘と目を合わせたとき、一瞬で(一ページで)これらすべてがいきなり変わってしまった。ハリーはおのれが影響を及ぼされうる人間であることを突然悟ったのだ。その後の歳月といくつもの物語のなかで、ハリーと娘の関係は、一度も前面に出てこなかった。なぜならそこを探求する用意がわたしにはまだできていなかったからだ。また、彼女をもう少し成長させ、ハリーと(そして読者と)きちんとした意思疎通ができる人物にならせてから、ハリーの脆弱性(もろさ)を追求する物語を書きたかった。それでマデリンと彼女の母親、エレノア・ウィッシュを香港に引っ越させた。父と娘の物語を書く用意が整ったときに、ハリーを勝手のわからない場所で右往左往させるよう、母と娘を外国の地に置いておきたかった。
『暗く聖なる夜』を書いたあと、はじめて香港を訪れ、取材をはじめた。去年、香港を再訪した。執筆において、なにを書くか、いっそれを書くかを決める際、作家は勘に頼る。どういうわけか、この物語を書くべきときがきたと感じた。そして『ナイン・ドラゴンズ』がその物語になった。物語は、ロサンジェルスではじまり、香港にいき、またロサンジェルスに戻ってくる。ハリーと彼の娘の物語である。娘へのハリーの様々な願いを描いた物語であり、父親としての至らなさに対する疚しさを描いた物語であり、そしてなによりも父親としての脆弱性(よわさ)を描いた物語である。これは、ハリーが他人に影響を及ぼされるときの物語である。」