ブラックボックス The Black Box その2

シリーズを読み通してこられた読者ならよくご承知の通り、ハリー・ボッシュの周辺では公私を問わず、というか公私が錯綜するかたちで、多くの女性が現れては去り、また現れては去っていくという場面が繰り返されてきた。ボッシュがなぜそれほどモテるのかを考えてみたが、主人公という特権的な立場にあることを除くと、よくわからない。ボッシュという人物は、外見はまずまずとしても性格は屈折しており、会話上手とはいえず、女性に対してとくに献身的ということころもなく、つまりジェームズ・ボンドのようなタイプでは絶対にない。しいて言えば、「孤高の一匹狼」というキャラクターが相手を警戒させながらも、ある種の磁力で逆に人を引きつけるのかも知れない。あるいは、ボッシュのもっと不思議なところは、事件解決のためという大義名分は常にあるにせよ、一匹狼タイプのわりにいつも誰か(とくに女性)に助けを求めるケースが多く、すると求められた相手の方は母性に似た保護本能のような部分で反応してしまう、といったパターンが見える気もするのだが・・・。

それはさておいて主題である女性たちの話題に戻ると、本作の事件がらみでは、公私の混在した不明朗な動機からボッシュの捜査を助ける女性がまずは二人登場する。そのうちの一人は、準レギュラーとなっているおなじみのFBI捜査官、レイチェル・ウォリングである。彼女がボッシュと交錯するのは、ミッキー・ハラーが担当したある事件の再審裁判以来、2年ぶりということになる(「判決破棄 リンカーン弁護士;The Reversal」を参照)。レイチェルは今回、まさに上で述べたようなパターンでボッシュを助ける。

デジャヴ [Blu-ray]二人めは、彼女の友人でスーザン・ウィンゴ(Susan Wingo)といい、ATF(Bureau of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives; 本作では”アルコール・タバコ・火器局”)の分析官という仕事に就いている。ATFは銃火器規制の一環として、犯罪に使われた銃を追跡する弾道照合ネットワークも管轄しており、今回のような事件の解決には欠かせない存在といえるだろう。本作では、彼女とボッシュとの短いが印象的なシーンが描かれている。なお、いつもの蛇足で恐縮だが、筆者はデンゼル・ワシントンがATF捜査官を演じた「デジャヴ(Déjà Vu)」という映画作品を思い出してしまった。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

公私の「公」で本作に初登場するのは、LAPDのPSB(Professional Standards Bureau;職業倫理局)に所属する刑事ナンシー・メンデンホール(Nancy Mendenhall)である。PSBは、本シリーズに度々出てきてはボッシュを悩ませたIAD(Internal Affairs Division;内務部または内務監査課)の後継となる組織であり、これもシリーズではおなじみのブラッドベリー・ビルにオフィスを構え、今回も、審問のためにボッシュらをそこに呼びつける場面が描かれている。ボッシュは初対面の印象として、メンデンホールが「愛矯があるとは言えないが、率直なほほ笑みを浮かべた小柄な女性だった」ので、逆に警戒心を起こす。彼女にはさりげなさと同時に、何かを含むような謎めいた部分がどことなく感じられ、練達の読者もボッシュのように幻惑されてしまうかも知れない。彼女は、本作以降の作品にも、引き続き登場することが伝えられている。

Photo by Frank Schulenburg – San Quentin State Prison, Marin County, California (2017) /CC BY-SA 4.0

次に、ボッシュの「私」生活に視線を転じると、前作(転落の街;The Drop)で初登場した医師ハンナ・ストーン(Dr. Hannah Stone)との交際がどうやら続いているようである。野次馬としては「その後どうなったか」と思っていたが、大人同士の男女としてごく普通の範囲と言えばそれまでだが、順調なようでもあり、また微妙な距離感を生じつつあるようにも見える。ボッシュは今回、捜査のためにサン・クエンティン州立刑務所(San Quentin State Prison)を訪れ、そのついでに収監中のハンナの息子に面会するのだが、その何げなく挿入された小さなエピソードが、後々、ボッシュの「公・私」双方に思わぬ波紋を広げていく・・・というあたりは、コナリーらしい手慣れた展開と言えなくもないだろう。ただ、少し気になるボッシュとストーンの関係がこれから先、どこに向かうのかは、読者としてじっと見守っていくほかない。

このように、あらためてボッシュの周辺を彩る女性たちを眺めてみれば、彼女らに概ね共通する要素があることに気付くだろう。それは、彼女たちが職業キャリア的に、また人格・識見において本シリーズに登場する他の主要人物に引けを取らないどころか、いずれも女性という不利な立場を乗り越えて、非常にしっかりと「自立」していることである。また、さらに付け加えるならば、(ひょっとすると、女性につい肩入れしたくなる筆者の妄想に過ぎないかも知れないが)彼女たちはみな、自立した人間に特有の「美しい強さ(あるいは、強さを兼ね備えた美しさ)」を放っている、と言えないだろうか。足腰に不安を覚えるようになった60代の主人公ボッシュに対し、女性たちが頼もしい支援を与え、ときには手強い相手を務めたりするという構図を見ると、テーマの一つが「老刑事と女たち」に変化したと思えるほどである。

The Catcher in the Ryeさて、ボッシュにとって事件解決よりも重要なことがあるとすれば、それは娘マデリン(マディ)と過ごす日常の時間そのものに他ならない。本作では、そのことをますます色濃く打ち出そうとしている作者コナリーの”決意”のようなものが感じられる。マデリンはいまや完全にボッシュの人生の一部、というよりも大半を占めるようになっている。普通の親にとっては当たりまえの、子どもに対する責任やささいな心配事などが、本筋とはまったく無関係にこれほどまで重大な事柄として描かれるということは、この種の小説としては異例と言ってもいいだろう。親でもある主人公が、事件に巻き込まれた娘を必死の思いで救い出そうとするといった”平凡な”ストーリーは世の中にいくらもあり、本シリーズでも「ナイン・ドラゴンズ (Nine Dragons)」がまさにその筋書きを踏襲したものであったが、その時点を境にしてハリー・ボッシュの人生が劇的に転換したことが、本作でも、父娘の日常描写を通じ、あらためて強調されているのである。

ひとつの典型的な場面を再現してみたい。マデリンが、本好きなら誰もが知っている「キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)」を読んでいる。そこに、ボッシュが話しかける・・・

「あのさ、パパはちょっと彼みたいなんだよ」マデリンが言った。
「ほんとか?その本の主人公の少年がか?」
「ミスター・モールが言うには、この本は純真について書かれたものだって。主人公は幼い子どもたちが崖から落ちるまえにつかまえたいと願っている。それは純真さが失われるというメタファーなんだって。主人公は、実際の世界の現実を知っており、子どもたちがそれに直面しなければならなくなるのを止めたがっている」 (中略)

「そうだな」ボッシュは言った。「おれは崖から子どもたちが落ちてからやってくる人間だとは思わないか?殺人事件を捜査しているのだから」
「うん、でも、その似たところが殺人事件の捜査をしたいと思わせているんだよ」 マデリンは言った。「パパは子どものころいろんなものを奪われた。それがパパに警察官になりたいと思わせたんだと思う」
ボッシュは黙りこんだ。

感受性ゆたかな少女が垣間見せる深い洞察に、フィクションだとわかっていても感動を覚えざるを得ない。ボッシュは、自分と同じように娘もまた「子どものころにいろんなものを奪われた」ことに心を痛め続け、その娘を何とか応援したいと頑張っている。同じ親世代の読者としては、ボッシュがそのように普通の親になり切ろうと奮闘すること自体が、かれにとって至上の幸せであることをよく理解できるので、たとえ小説全体の3分の1ほどがホームドラマになってしまっても、それはそれで容認せざるを得ないだろう。また、そのことに加え、これから先は一作ごとに、ボッシュの年齢がますます気掛かりとなっていくことも確実であり、そうした諸々の要素から、近い将来、本シリーズが成立しなくなるような事態さえも、残念ではあるが覚悟しておく必要があるのかも知れない。

ただ、筆者にはファンとして、コナリーに対しクレームしたいことが一つだけある。それは、父娘の微笑ましい日常の中に、妻であり母であったエレノア・ウィッシュの面影が見当たらないことである。父娘の「いまこの瞬間の幸せ」に集中したい気分も理解できるが、その父娘が「いまある」のはエレノアの存在あってのことだし、最も近い肉親の喪失記憶をこのように薄めてしまっているコナリーの描き振りには、必ずしも同意できない。マデリンがいつの日か独り立ちし、颯爽とした主人公になる時がやって来るのかも知れないが、その時になってやっと回想やトラウマとしてエレノアを登場させるという扱いは無神経であり、父娘が幸せになればなるほど、その陰で忘れられがちとなるエレノアの存在はあまりに哀し過ぎるのではないか。はたして皆さんは、どのようにお感じであろうか?

Photo by Kafziel – The Great Mausoleum at Forest Lawn in Glendale, CA (2009) /CC BY-SA 3.0

さて、あとは余談であるが、本作から「フォレスト・ローン墓地 (Forest Lawn Memorial Park, Glendale)」というハリー・ボッシュ・ツアーの新名所をとりあげておきたい。そこには、クラーク・ゲーブルやウォルト・ディズニーなどの多くの有名人に交じって、ボッシュの実父(J・マイクル・ハラー;J. Michael Haller)の墓があり、本作では仕事がらみでボッシュが訪れる場面が描かれている。

The Modesto Arch in Modesto, north central California. The slogan is the city’s motto: “Water, wealth, contentment, health”

また、今回はめずらしく、事件がLAからかなり離れた場所で完結するのだが、その土地もご紹介しておきたい。カリフォルニア州の中央部やや北寄りに位置するスタニスラウス郡(Stanislaus County, California)という地方で、コナリーがその場所を選択した必然的理由については、ぜひ本文でお確かめいただきたい。

 

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投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。