転落の街 The Drop

Hong Kong

マイクル・コナリーは2009年の「ナイン・ドラゴンズ」で、ハリー・ボッシュ・シリーズに織り込まれていた主要プロットの一部を強制的に、まったく別の方向へとシフトしてしまった。シリーズのそれまでの延長線上で、難事件を追いながらも淡々と残された年数を過ごし、LAPDの一刑事という天職を全うするのだろう。そんなボッシュの後半生を想像していた読者もいたに違いないが、「ナイン・ドラゴンズ」はあらゆる意味で衝撃的な作品となり、少なくとも「ボッシュ(あるいはシリーズ)がこれからどうなる?」ということについて、単なる期待と不安以上の関心を呼び起こすことに成功した。

ボッシュはその後「判決破棄」(2010年)でミッキー・ハラーを助け、「証言拒否」(2011年)でも少しだけ顔を見せてはいたが、長年にわたってボッシュを追いかけ、シリーズを知り尽くした読者がその程度に満足するわけがない・・・ということで本作は、ボッシュが2年ぶりに「読者のもとに帰ってきた」シリーズ正編作品である。2010年11月、ボッシュはRHDの未解決事件班(the Open-Unsolved Unit; 別名ではthe Cold Case Special Section)に戻り、「三合会」の捜査で知り合ったディヴィッド・チュー(David Chu)と組んでいる。本作の時点は2011年10月初めで、ボッシュは61歳。「DROP; Deferred Retirement Option Plan」という制度を使って定年を延長し、39ヵ月後(2014年12月)に退職予定という立場になっている。

転落の街(下) (講談社文庫)転落の街(上) (講談社文庫)僭越ながら、シリーズ愛読者も本作の痒いところに手がとどくような出来映えには満足するだろう。原題の”The Drop”には、ボッシュに適用された定年延長制度の名称のほか、ある事件で分析された血痕=滴(しずく;drop)、もう一つの事件の発端であるホテル高層階からの転落(drop)という三重の意味がこめられている。ボッシュは、残り少ない刑事人生についてかれなりの感慨を抱きながら、同時並行でふたつの重要事件を捜査していく。作者コナリーは、未解決事件の新証拠として扱われることの多いDNAの二重螺旋イメージから連想し、「撚り合わせながらも、おたがいにけっして触れあわないふたつの異なる物語」をメインに据えて描こうとしたのである。

そればかりではない。コナリーはもっと驚くべきことに、メイン・ストーリーの絶妙な合間を縫って「その後あの話はどうなったか」というまさに読者の知りたかった情報を過不足なく、また違和感なく挿入することに成功している。すなわち、ボッシュと快活になった娘マディとのほほえましい生活ぶり、アーヴィン・アーヴィング(元LAPD副本部長)との確執の延長戦、また、出世階段を上りつつあるキズ・ライダーの成長(?)、若いアジア系パートナーとの師弟関係、はたまた新たな女性との出会い(!)など、数々の新たなエピソードがマルチ・レイヤーとして重層的に描かれている。長年のファンを自認する方々ならば、本作で、コナリーのいつもながら読者を飽きさせないサービス精神と、いまだ進化中の創作技術をうれしい驚きとともに再発見するだろう。

Photo by Luke Jones – Staircases and atrium interior of the Bradbury Building, Downtown Los Angeles (2008) / CC BY 2.0

また、本作の背景には、ウッドロー・ウィルソン・ドライブのボッシュの自宅や、ハリウッド署のオフィス(ジェリー・エドガーの机にボッシュがいたずらする場面付き)、その他すでにお馴染みとなっているLAの名所が描かれて懐かしさを覚えるとともに、ボッシュのジャズ好きがマディに伝染したと思われる場面などから、本シリーズに彩りを与えてきた音楽世界もまた健在であることが確認できる。ミッキー・ハラーの元妻で検事補、マギー・マクファースンの消息もさりげなく明かされている。それらのエピソードや人物、背景などの見逃せない部分については、別の記事であらためてご紹介することにしたい。とくに、娘マディと、キズ・ライダーの深掘りは欠かせないだろう。本作の音楽については、こちらの「ボッシュ・シリーズと音楽 その16」をどうぞ。

Hollywood All Star Sessionsボッシュがどのように難事件を解決していくか。本作でもそこが最も興味深いことは当然だが、シリーズ愛読者としては(筆者を含め)、60歳を越えてLAPDを永久に去る日が定まったボッシュの心境も気になるところである。物語が始まると、早速こんな場面に出くわす。一つ目の現場で、床から立ち上がろうとしたボッシュの「膝の関節がポキンと鳴った」のである。かれは「自分にまだ刑事としての鋭さがあるかどうか、バッジと銃を所持するに値するかどうか」を日頃から疑うようになっていたが、それに加え、本作ではきわめつけの「ハイ・ジンゴ(公正な事件捜査にあるまじき濃厚な政治色*)」に遭遇し、とうとう残り39ヵ月を走り切る自信さえ失いかけてしまう。(*:ボッシュ・シリーズと音楽 その9 を参照)

しかし、意外にナイーブで動揺しがちな部分もボッシュらしいが、いずれ「初心に還る」ところがボッシュの真骨頂である。今回も「どれほど失敗をしようと、使命は終わら」ず、「つねに使命はそこにあり、つねにやらねばならない仕事がある」と、ドラマの中であらためて決意を示す。その結果、最終的には、ボッシュの雇用延長期間として最大値(2016年5月までの5年弱)が認められことになる。「まだ書き続けていきたいと望んでいる」作者コナリーが決めたことに違いないのだが、一読者としてひとまずホッとせずにはいられない。コナリーの野心的なプロット・シフトによって、ハリー・ボッシュ・シリーズがここ当分は楽しめると保証されたことは朗報だ。

なお本作では、「だれもが価値がある、さもなければだれも価値がない (Everybody counts or nobody counts)」という、知る人ぞ知る状態であったボッシュの信条が、物語のなかでひとり歩きする。長年の宿敵であるアーヴィン・アーヴィングが、どこで聞いたのか、そのフレーズを持ち出してボッシュに事件の捜査を強いるところはひねりが効いていて面白い。

Chateau Marmont Hotel — on the Sunset Strip in West Hollywood

余談であるが、「転落」の一つの現場となったシャトー・マーモント・ホテル(the Chateau Marmont Hotel in West Hollywood)は、作者コナリーのお気に入りの一つとのこと。現在かれはLAに住んでおらず、フロリダのタンパから取材や執筆のためにLAを訪れる日々を送っている。そして、しばしば実際にシャトー・マーモントの79号室に滞在し、そこを本作の事件現場に採用したことをインタヴューで語っている。こうして、ハリー・ボッシュ・ツアーの新名所がまた一つ増えたのも楽しい。

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投稿者: heartbeat

管理人の”Heartbeat”(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代前半。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。