ボッシュ人物論2 使命感はどこから

blurry-691240_960_720-02ボッシュは、母の死から33年後、未解決に終わったその事件の調査を始める。そうするうちにボッシュは、長い間ずっと心の片隅に残っていたというのは言い訳であり、自分はそれから目を背けていたこと、すなわち自分の任務(mission)から逃げていたことに気づくのである。「母は価値のある人間とみなされてこなかった・・・おれにさえも」 (「ラスト・コヨーテ」)

そして、母を殺した犯人を捜し出し、必ずや正義の鉄槌を下すという行動以外に、自分の心を正すことはできないと確信する。それ以来、ボッシュは「だれもが価値がある。さもなければ、だれも価値がない」という行動基準をより強く持つようになった。その意味は、犠牲者が誰であってもけして分け隔てせず、その側に立って、ひとつひとつの事件に全力で取り組むこと、である。「それがいまやおれの任務なんだ」。

LA_downtown 2-4こうして、ボッシュは、自分の仕事を「使命=任務(mission)」と捉える意識を自分のなかで強化した。仕事は職業であり生計の基であるといった、普通のひとの考える仕事意識や職業感をはるかに超えるレベルの強烈な使命感が、ボッシュを自ら支えていくのである。

そのようなボッシュの内面を鋭く喝破したのは、FBIの心理分析官テリー・マッケイレブ(Terrell “Terry” McCaleb)だ。マッケイレブはボッシュとの初対面のおりに、ボッシュの人物を次のように分類した。すなわちボッシュは、「使命に生きる男であり、復讐する天使」(a Man on a Mission and an Avenging Angel)であると。ボッシュは、自分の仕事を通して求道者のように何かを探し求めており、事件の犠牲者と自分自身を同一視する傾向がある、といった意味である。

LA_palm-trees-207045_960_720-03その後ボッシュは、カウンセラーやパートナーなどに否応なく自分について説明する、といった経験を重ねるうちに、シンプルに「使命」を語れるようになっていく。「2003年2月号の《ミステリマガジン》には、作者のコナリーが主人公のボッシュにインタビューするという形の記事が掲載されている。そこでコナリーはボッシュに、悪はたんにこの世に存在するものなのか、それとも人の手によって育まれるものなのかという質問を発している。

シティ・オブ・ボーンズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)これに対してボッシュは、おれにとって重要なのは、たとえその源がなんであったとしても、悪がそこに存在していることなんだ。どこで生まれたものなのか気にしゃしない。大切なのは、現場に出て、この世からその悪を取り除くことだと答えるのだ」 (関口苑生氏:「シティ・オブ・ボーンズ」解説より)

しかし、そうした使命を果たそうとする者には、つねに恐ろしい陥穽が潜んでいる。ボッシュは、次のような、ニーチェの警句を忘れてはならない。「怪物と戦う者はだれであれ、その過程において、自分が怪物とならぬよう気をつけなくてはならぬ。そして、おまえが深淵を覗きこむとき、その深淵もまた逆にこちらを見つめかえしているのだ」

この項のくくりとして、少し長くなるが、作者自身の解説を聞いておこう。

coyote-1475613-02「ボッシュには彼の立場を語ってくれる行動基準をもってほしかった。人生の大半において外側からの視点をもっていた人物として、自分の原点を忘れず、弱者の側にしっかりと彼を据える行動基準をもってほしかった。ボッシュには愚か者にたやすく悩まされることも、権力者や富める者にこびることも許さない振る舞いと公平さのある行動基準に従って動いてほしかった。分け隔てなく行動し、立場や個人的な優位を利用することはけっしてない。犠牲者が何者であっても、手がかりにどこへ導かれることになっても、ひとつひとつの事件に全力を尽くすとボッシュは理解している。”だれもが価値がある。さもなければ、だれも価値がない” これが彼の行動基準になる」(「ヒエロニムス・ボッシュ」マイクル・コナリー(三角和代訳)ミステリマガジン2010年7月号より)

ボッシュ人物論(3)につづく。

ミステリマガジン 2010年7月号 特集 マイクル・コナリー・パーク 早川書房
ミステリマガジン 2010年7月号
特集 マイクル・コナリー・パーク
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