ボッシュ人物論1 独りきりで生きる男

boy-1205255_960_720-2ボッシュは十分な愛情を知らずに育った。父親を知らずに母の手で育てられていたが、10歳のとき、娼婦を続けていた母が親として不適格とみなされ、養護施設に入れられる。幼いボッシュと母は塀によって隔てられ、その後まもなく、母は何者かに殺害されてしまう。その死を聞いた日に、プールの底深くにもぐって声をあげて泣くボッシュ少年の哀切きわまりない回想が描かれている。

人格形成に分岐点というものがあるとすれば、ボッシュのそれは幼少期に、他者の想像を一切許さないほどに狭められてしまった。「喧嘩早くて、だれにでも引っかき、警戒の声を向ける猫は、仔猫のときに充分抱かれていなかったからなのだそうよ」と、ある女性がボッシュに語りboy_old-163801_960_720かける(「ラスト・コヨーテ」)。ボッシュはまさしくそんな仔猫だったのである。

孤児となったボッシュは、その後、17から18歳のころまで、養育施設と里親のあいだを転々とする。その回想は本シリーズの随所で語られる。たとえば、16のときに新たな里親に引き取られたが、その養父はボッシュが左利きであることに目をつけ、サウスポーのプロ投手に養成しようとする。それは愛情ではなく金目当だった。要するに、ボッシュは愛情を知らずに育った。だれも信じず、だれにも頼らない独りきりの生き方を、鎧のように身につけていった。chainlink-691921_960_720

のちに、成人したボッシュが愛情の薄い少年にかぎりない優しさを抱く場面が描かれている。別の女性が気づいてこう言う。「自分の姿を見ているようなところがあるのね?」(「ナイトホークス」) またかれは、麻薬を密売する少年たちを見て、自分が養護施設で過ごした記憶を蘇らせる。かれ自身の感じた「まじりっけなしの恐怖と、悲鳴をあげたいほどの孤独」を思い出すのである。(「ブラック・アイス」)

ボッシュは18歳から20歳にかけてベトナムに従軍し、復員後、ほかの帰還兵と同じようにPTSD(Post Traumatic Stress Disorder; 心的外傷後ストレス障害)を抱える。自分自身に障害という意識は希薄のようだが、その後永年にわたり不眠症に悩まされることになり、幼少年期のトラウマとあいまって、かれの心理と生き方そのものに深い影響を及ぼすことは避けられない。ただし、戦争後遺症はベトナム以後のアメリカが抱える社会病理の反映でもある。

Portrait of Hieronymus Bosch
Portrait of
Hieronymus Bosch

作者コナリーは、このような生い立ちの物語に加えて、主人公ボッシュの人格により深い陰影を与えるため、孤高のシンボルとなるような、いくつかの符号をボッシュに与えている。

一つめは、ヒエロニムス・ボッシュ(Hieronymus Bosch)という、中世フランドルの幻想画家に因んだ本名である。 “Hieronymus”について、 “anonymous”(意味は「匿名の、誰でもない」)とおなじ韻を踏むという説明が、物語の中で、第三者に対しなんども繰り返される。ボッシュは、「誰でもない」という名前のせいもあって、「自分がなにものなのか」を自問し続けざるを得ない。(詳しくは、「ヒエロニムス・ボッシュ」の秘密

フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 – 1900)
フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 – 1900)

二つめは、ボッシュが名乗ったかも知れない、隠された本名ハリー・ハラー(Harry Haller)である。この名前は、へルマン・へッセの「荒野のおおかみ(Der Steppenwolf)」の主人公に由来している。へッセの造形したハリー・ハラーはまさに「アウトサイダー」であり、妥協して生きることを自分に許さない強烈な存在感を持つ人物であった。(詳しくは、「ハリー」に隠された、もう一つの符号

三つめの符号は、画家エドワード・ホッパー(Edward Hopper)の作品、「ナイトホークス(夜ふかしをする人たち; Nighthawks)」に描かれた世界である。ボッシュが、その絵の中の男と自らを同一視する。自分こそ「孤独な夜の鷹=ナイトホークス」であると。コナリーは小説と絵画を見事にシンクロさせている。

ナイトホークス(夜ふかしをする人たち) エドワード・ホッパー
ナイトホークス(夜ふかしをする人たち)
エドワード・ホッパー

 

 

 

 

もうひとつ挙げると、ボッシュ自身はサンタモニカ山地に棲む「最後のコヨーテ」を自らに擬している。「都会の丘陵地帯で生きていくための苦闘で、やせ細り、毛はばさばさに」なってしまった野生の獣は、独りきりで生きていこうと苦闘するボッシュ自身の表象にほかならないであろう。(「ラスト・コヨーテ」)

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上で述べたような人物が、LAという大都会の、実際の社会や組織に組み入れられたり、家庭をきずこうとしたりするときに、どのような化学反応を起こすかは興味深い。

 

ボッシュ人物論(2)につづく。

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投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。