「ヒエロニムス・ボッシュ」の秘密 3

ヒエロニムス(Hieronymus)とは、画家ボッシュが俯瞰した悪夢のような世界に立ち向かう者の名前であった。また、ニーチェの言う「怪物と戦う者」、「深淵を覗く者」の符号でもあった。そして、ヒエロニムスにはさらに、もう一つの謂(いい)があることも見落としてはならない。

それは、作中でたびたび、ボッシュ自ら説明している。ボッシュが誰かに自分の本名を紹介するとき、ヒエロニムス(Hieronymus)がanonymousとおなじ韻であると話すのである。つまり自分は、Hieronymus というが、同時にanonymous(アノニマス)=「匿名の」・「誰でもない」・「名無し」でもあると。

boy_child-438373_960_720そのように紹介された他人は、それを受けて少なからず違和感や「居心地の悪さ」を覚えるかも知れない。あるいは、そのひとが十分に感性豊かであれば、そこにボッシュの自嘲や孤独な人生さえ感じるかも知れない。

ボッシュは、「誰でもない」がゆえに、「自分がなにものなのか」と自問し続け、アイデンティティを探し求める。その数奇で孤独な生い立ちの物語は、本シリーズの第一期ともいえる「ナイトホークス(The Black Echo)」から「ラスト・コヨーテ(The Last Coyote)」までの4連作のなかで読者に明かされていく。また、シリーズを読み進める読者はやがて、その物語がシリーズ全体に流れる通奏低音であることに、否応なく気づかされるのである。

さて、ヒエロニムスはとても言いにくい名前であり、とうぜん短縮形が必要になる。そこで、ヒエロニムスがなぜ「ハリー」になったのか、についても知っておきたい。

「ハリー」の由来について、はこちら。

ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)

 

 

 

ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)ラスト・コヨーテ〈下〉 (扶桑社ミステリー)

画家ボッシュとの関係

Portrait of Hieronymus Bosch
Portrait of
Hieronymus Bosch

ヒエロニムス・ボッシュ(Hieronymus Bosch、1450-1516)は中世フランドルの画家である(日本では「ボッシュ」を「ボス」と表記することもある)。本稿では画家ボッシュと表して、刑事ボッシュと区別している。

画家ボッシュの生涯は不明な点も多いが、画名の由来となったス・ヘルトーヘンボス(デン・ボス)で一生の大半を過ごし、街のキリスト教友愛団体である「聖母マリア兄弟会」に所属して、絵画を制作していたとされる。当時スペインのフェリペ2世がボッシュの絵画を愛好したため、傑作の多くは現在、マドリードのプラド美術館に残されている。

 「快楽の園」 (The Garden of Earthly Delights), ヒエロニムス・ボッシュ
「快楽の園」 (The Garden of Earthly Delights), ヒエロニムス・ボッシュ

聖書関連の寓話が主たるモチーフとされるが、シュルレアリスムを思わせるような幻想的で怪異な作風は明らかに他と一線を画しており、作品それぞれの主題や制作意図も謎に満ちている。

Detail from The Garden of Earthly Delights 「快楽の園」(部分)
Detail from The Garden of Earthly Delights
「快楽の園」(部分)

とくに有名な「快楽の園」は三連の祭壇画である。向かって左のパネルに、キリストの姿を取った神がアダムにイブを娶わせた「エデンの園」が描かれている。中央パネルが現世と考えられる「快楽の園」であり、一種異様な雰囲気のなかで無数の裸の男女が様々な快楽に耽っており、その背景には奇妙な生物とも無生物ともつかない物体が置かれている。

右のパネルが「地獄」である。胴体が卵の殻になっている男、人間を丸呑みにしてはすぐ排泄してしまう怪鳥、その他何とも名づけようのない奇怪なイメージで満たされて、その背景は爆発炎上する街のシルエットである。

ハリー・ボッシュは母親が送ってよこしたこの絵の複製画を永く持っており、かれの自宅の廊下に掛かっているのを、訪れたエレノア・ウィッシュが見つめる場面がある(「ナイトホークス; The Black Echo」)。また、それよりはるか以前、ボシュの実父のオフィスにも同じ複製画が掛かっていた。その事実は、物語のずっと後ろの方で意外な人物から明かされることになる(「真鍮の評決 リンカーン弁護士; The Brass Verdict」)。

なお、ハリー・ボッシュ・シリーズ第7作、「夜より暗き闇(A Darkness More Than Night)」の文庫カバーは、画家ボッシュの代表作の一つ「最後の審判」をとり入れており、本シリーズのなかで最も凝ったデザインとなっているので、そちらにも注目してほしい。



夜より暗き闇(上) (講談社文庫)夜より暗き闇(下) (講談社文庫)

「ハリー」の由来について

ヒエロニムス・ボッシュはとても言いにくい名前であり、とうぜん短縮形が必要になる。そこで、「ヒエロニムス(Hieronymus)」がなぜ「ハリー(Harry)」になったのか、についてもファンとしては知っておきたい。そこで、ここはまず、作者コナリーに聞いてみよう。

「ヒエロニムスという名前はジェロームという名の由来であるラテン語だ。そこから判断すれば、ヒエロニムス・ボッシュ刑事は短くジェリーと呼ばれるのが筋であっただろう。だが、わたしはそうはしないでハリーで行くことにした。”ダーティ”・ハリー・キャラハン(”Dirty” Harry Callahan)とハリー・コール(Harry Caul)という、語り手としてわたしが進化するために重要だった映画の主人公たちへの黙礼として選んだ」(「ヒエロニムス・ボッシュ」マイクル・コナリー; 三角和代訳、ミステリマガジン2010年7月号より)

ダーティハリー コレクション スペシャル・バリューパック(初回限定生産/5枚組) [Blu-ray]ダーティ・ハリーについては、あまり映画を見ないという方も名前くらい聞いたことがあるだろう。1970年代、独特の雰囲気をもつサンフランシスコを舞台に、職務遂行のためには荒っぽい手段も辞さない”ダーティ”・ハリー・キャラハン刑事をクリント・イーストウッドが見事に演じた。このハリーは組織や規律にしばられないアウトローであり、直情径行で信念を貫徹する性格は、名前とともにハリー・ボッシュに色濃く受け継がれた。

カンバセーション・・・盗聴・・・ コレクターズ・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]ハリー・コールのほうは少し説明がいるだろう。こちらのハリーは、1974年のフランシス・コッポラ作品、『カンバセーション…盗聴…(The Conversation)』の主人公で、名優ジーン・ハックマンが演じている。ハリー・コールは通信傍受のプロフェッショナルとして職業上の名声を得ているが、私生活は孤独そのもの。自室に籠り、サクソフォンでジャズを奏でることが唯一の慰みという人物である。これだけ言えば、ハリー・ボッシュとの共通点はお分かりであろう。

なお、この作品は殺人計画に巻き込まれた主人公の心理的恐怖を描いたサスペンスであるが、多くの批評家からコッポラのキャリアを代表する傑作として高く評価され、1974年にカンヌでパルム・ドールを受賞している。同年度のアカデミー賞3部門にもノミネートされたが、なんと同じコッポラ作品の「ゴッドファーザー Part2」に阻まれて受賞に至らなかったという不運な作品である。一見をお薦めしたい。

「ハリー」に隠されたもう一つの符号、につづく。

「ハリー」に隠された、もう一つの符号

ハリー・ボッシュは1968年、18歳のときにベトナムに従軍し、そのおよそ2年後に除隊してロサンジェルスに戻ってくる。ボッシュは、生い立ちのトラウマに加えて、苛酷な戦争体験の記憶に苛まれるようになっていた。

1970ブラック・アイス (扶桑社ミステリー)年夏、かれの思いは、自分自身の失われたアイデンティティに向かっていく。それまで別段、気にもしていなかった自分の出生について調べ始め、やがてある人物が実の父親であるとの確証に行きつくのである。これらの経緯は「ブラックアイス(The Black Ice)」の中で明らかにされている。

その人物とは一流の刑事弁護士、J・マイクル・ハラー(J. Michael Haller)であった。ボッシュはハラーに会うためビバリーヒルズの邸宅を訪れる。ハラーは癌で死期間近の老人であり、ボッシュにこう述べる。「おまえはもしかしたらハリー・ハラーになっていたかもしれないな」

Beverly Hills Hotel
Beverly Hills Hotel

われわれは、ここで重大なことに気づく。もしも、20年前に、誕生したばかりのボッシュを取り巻く世界が正統なる秩序に保たれていたならば、かれが本来名乗るべき名前は、ハリー・ハラー(Harry Haller)であったかも知れないのである。母の命名であるヒエロニムス=ハリーと、父の姓を合わせれば。

「彼が本来名乗るべきはずであった名前が、へルマン・へッセの『荒野のおおかみ(Der Steppenwolf)』の主人公と同じ名前(ハリー・ハラー;Harry Haller)であったというのには少なからず衝撃を受けた。この人物のことはコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の中でもことさら大きく取り上げられているが、彼の生き方はまさしく”アウトサイダー”そのものであったのだ。自己を誤魔化すことなく、市民的なもの、組織的なものと妥協して生きることもない、強烈なる存在感を持った人物だったのである」(関口苑生氏; 「ブラックアイス」解説より)

ラスト・コヨーテ〈下〉 (扶桑社ミステリー)ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)「ハリー・ボッシュ」の裏側には、「ハリー・ハラー」というもう一つの重大な符号が隠されていた。ハリー・ハラーという名辞は、苦悩するアウトサイダーの魂をもつ「荒野のおおかみ」を象徴するが、その魂がいまやハリー・ボッシュ(すなわち、「ラスト・コヨーテ(The Last Coyote)」)に乗り移っていることを、われわれは知ったのである。

なお、J・マイクル・ハラーは1970年に息子との面会を果たしたあと、まもなく死去した。

へルマン・へッセの「荒野のおおかみ」

荒野のおおかみ(Der Steppenwolf)」は、詩人ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)、50歳の記念的作品である。主人公ハリー・ハラーは、市民的な平凡な毎日を繰り返し過ごす生活に対して疑問を持っていた。そして、彼は、そのような生活から逃げようとする孤独なアウトサイダーだった。市民的な生活に馴染もうとする自分と、その生活を破壊しようとするおおかみ的な自分。二つの魂を持つハリーは、自殺を一つの逃げ道として捉え、それによって、かろうじて精神の均衡を保ち、自分のことを「荒野のおおかみ」だと考えていた。

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」

「アウトサイダー(The Outsider)」は、コリン・ウィルソン(Colin Wilson)、25歳の処女作。H.G.ウェルズ、カミュ、ヘミングウェイ、サルトル、ニーチェ、ゴッホ、ニジンスキー、アラビアのロレンス、ドストエフスキー、ブレイク、ジョージ・フォックス、ラーマクリシュナ、グルジエフの登場人物など、自らの意思で社会秩序の外側に身を置く「アウトサイダー」たちを通して、現代人特有の病とその脱出法を探求し、全世界に衝撃を与えた名著である。




ナイト・ホークス by Edward Hopper

本シリーズのテーマ、少なくともその重要な部分を直観的に理解するには、エドワード・ホッパー(Edward Hopper)の1942年の作品、「ナイトホークス(夜ふかしをする人たち; Nighthawks)」を鑑賞すればいいだろう。コナリーの創作した主人公ボッシュの深い陰影を湛えた人物像が、画家ホッパーの描いた世界にくっきりと浮かび上がり、小説と絵画が見事にシンクロしているからである。「ナイトホークス」とは「孤独な夜の鷹」、すなわち「夜ふかしをする人たち」である。

ナイトホークス(夜ふかしをする人たち) エドワード・ホッパー
ナイトホークス(夜ふかしをする人たち) エドワード・ホッパー

ある街角の夜ふけのダイナー(軽食レストラン/バー)。閑散とした店のカウンターに、ひと組のカップルが寄り添い、手前には一人の男が物思いに沈む体(てい)で背中を見せている。店員は自分の仕事にいそしむ。店の向こう側はガラスを通して、真っ暗な空間が占めている。画家、もしくは鑑賞者は、店の外の、少し離れた場所からそんな寂しい光景を眺めている。1940年代の都会がもつ孤独や空虚、疎外感がみごとに表現された作品だ。

ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)ナイトホークス〈下〉 (扶桑社ミステリー)小説「ナイトホークス」でボッシュは、サンタモニカにあるエレノア・ウイツシュの家を訪れたときに、カウチの上に掛けられたこの絵(複製画)を見つけ、エレノアとの精神的なつながりを強く感じる。かれ自身も前からその絵が気になっていたからだ。ボッシュは、その内の一人で座っている男を自らと同一視していた。自分こそ「孤独な夜の鷹=ナイトホークス」であると。

一方、エレノアも同様に、自分を一人の孤独な人物のほうになぞらえていたが、ボッシュと親密になった途端、カップルのほうに宗旨替えする。しかし、ふたりから孤独の雰囲気が消え去ることはなく、いつかまた一人に戻るのではないかと、読者を予感させる。小説家コナリーは、この絵から多くのインスピレーションを受けたに違いない。

本シリーズには警察小説の一面もあるが、ハードボイルドの系譜をより強く感じる。そう考える根拠のひとつは、ハリー・ボッシュの物語が、銃やバッジやパトカーのイメージを連想させるのでなく、このホッパー作品から滲み出ている孤独な男のイメージにぴったりとシンクロするからである。この絵こそ、ハリー・ボッシュ・シリーズのモチーフであると同時に、普遍的なテーマとさえ言えるのではないか。

トランク・ミュージック〈下〉 (扶桑社ミステリー)トランク・ミュージック〈上〉 (扶桑社ミステリー)コナリーもそのように感じたからこそ、シリーズの中で、この絵をとても丁寧に扱っている。はじめサンタモニカの家にあった絵(複製画)は「ナイトホークス」の事件の後、エレノアからボッシュに贈られる。ボッシュは地震で一度それを失ってしまうが、「トランク・ミュージック」でエレノア本人と再会するとき、ラスヴェガスの家を飾るこの絵にも再会。その後、ふたりは結婚し、絵はロサンジェルスのボッシュの新しい家の壁に掛け替えられた。この絵の旅程がまさに、「ふたりの心のつながりを象徴するもの」(岩田清美;「トランク・ミュージック」解説)であったのだ。

さて、エドワード・ホッパー(Edward Hopper, 1882-1967)は、20世紀アメリカの具象絵画を代表する一人である。おもに東海岸地区の都会の街路や、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家など、人々の目に見慣れた風景や生活を、独特の感性で描いた。人間の孤独感や疎外感がつよく表現されたホッパー作品は今日高い人気をもっている。

エドワード・ホッパー/ナイトホークス 額装ポスター artposters