さらに、コナリーは言う。
「執筆しているのは、日夜人間の深淵に引きずられ、仕事によって混沌とその結果の風景を隅々まで引きまわされる男の話。人間のなかに巣くう恐ろしい悪魔に立ち向かい、そのあいだずっと自身の暗い気持ちと葛藤する男の話なのだ。その日から、彼はヒエロニムス・ボッシュ刑事となった」(「ヒエロニムス・ボッシュ」マイクル・コナリー; 三角和代訳、ミステリマガジン2010年7月号より)
画家ボッシュが描いたような悪夢の光景、「人間のなかに巣くう恐ろしい悪魔」に立ち向かうヒエロニムス・(ハリー)・ボッシュは、まさに、ニーチェのいう「深淵を覗く者」を想起させる。
「怪物と戦う者はだれであれ、その過程において、自分が怪物とならぬよう気をつけなくてはならぬ。そして、おまえが深淵を覗きこむとき、その深淵もまた逆にこちらを見つめかえしているのだ」 ― ”Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.” ―『善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Bose)』の146節
コナリーは、「ブラック・ハート(The Concrete Blonde)」のある場面で、ボッシュと対峙する弁護士チャンドラーという人物の口を借りて、上記のニーチェのことばを語らせている。ここでボッシュは、心の奥にひそむ闇との対決において、深淵を覗くあまりに怪物の側に立ってしまったのではないかと、弁護士に迫られているのである。