2001年1月、「わが心臓の痛み」からおよそ3年後、引退生活を送るテリー・マッケイレブはFBI時代の腕を買われ、ある事件捜査の協力を依頼された。マッケイレブは現場を見て連続殺人を推定し、被害者をかつて逮捕した因縁のあるボッシュを訪ねる。驚くべきことに、捜査の過程からボッシュは容疑者としてリストアップされていたのだ。ふたりの軌跡がここで本格的にクロスオーバーする。
マッケイレブはさらに捜査を進めるが、猟奇的な殺人の現場に残された宗教的意味のある言葉、特異な殺しの方法、そしてフクロウ像など、すべての手掛かりが中世の画家ヒエロニムス・ボッシュ、すなわちハリー・ボッシュを名指ししていることに気づく。(画家ボッシュについてはこちら)
一方、ボッシュは、別の殺人事件の主任捜査官であり、かつ重要証人として、メディアが注目するその事件の裁判の渦中にあった。マッケイレブの綿密で執拗な捜査と、ボッシュの関係する白熱の法廷シーン、この2つのプロットが並行して交互に描かれ、スリリングに絡み合っていく。本作は、ロサンジェルス・タイムズが選ぶ2001年度ベストブックの一冊に選ばれた。
マッケイレブは、ボッシュの危うく不安定な内面を容赦なく暴いていき、読者もマッケイレブの目を通して、はじめてボッシュを客観視することになる。「深淵を覗く者」に対して「自分が怪物とならぬよう気をつけなくてはならぬ」という、あのニーチェの警句がついに現実の問題と化したような戦慄を覚えるのである。(警句について、詳しくはこちら)
「マッケイレブから見たボッシュは、ボッシュが自分について思っている以上に危うく、攻撃的で、暗い。人が人であるための一線をいとも容易く超えてしまいそうな、そんな匂いをぷんぷんさせている。それゆえ、マッケイレブはかつての仲間で、しかも少なからず好意を抱いているはずのボッシュに殺人の容疑をかけるのだ。これまでは常に追う側だったボッシュが、今回は紛れもなく追われる側になる。彼は追う側に戻って来られるのか、それともこのまま追われる側の人間になってしまうのか・・・」(五條瑛氏の解説より)
本作中で明らかとなるが、ボッシュとマッケイレブは、以前に共同で殺人事件の捜査にあたった旧知の間柄である。その事件とは、身元不明の少女が全裸死体で発見された「シエロ・アズル(Cielo Azul)事件」で、ボッシュは当時FBIの心理分析官だったマッケイレブに捜査協力を求めた経緯があった。その内容はコナリーのファン・サービスとして書かれた短篇” Cielo Azul”(「ジャーロ」2001年秋号訳載)で語られている。
なお、本作の文庫カバージャケットは、画家ボッシュの代表作の一つ「最後の審判」をとり入れており、本シリーズのなかで最も凝ったデザインとなっているので、そちらにも注目してほしい。また、いささか蛇足気味だが、本作には新聞記者マカヴォイも脇役として登場している。