エレノア・ウィッシュ その5/完

 

Photo by WiNG - Macao Hotel Lisboa 葡京酒店 (2008) / CC BY 3.0
Photo by WiNG – Macao Hotel Lisboa 葡京酒店 (2008) / CC BY 3.0

ラスヴェガスで、ボッシュに娘マディを引き合わせたエレノアであったが、その翌年(2003年)、娘を連れて香港に移り住んでしまう。理由は、マカオのカジノでより賭け金の高い一流のポーカー・プレーヤーになりたかったということらしいが、コナリーにしては不用意で、不可解すぎる展開と感じた読者も多いだろう。筆者もそのひとりだ。

エレノア・ウィッシュの後半生は、もっと丁寧なプロットで書き上げてほしかった。これに関する問題点はいくつもある。53歳になる孤独な父親から、会いたいときには娘に会えるという機会を失わせてしまった。娘の教育については一体どう考えていたのだろう。エレノア自身にしても、ポーカーの成功を人生の目標とするのはいいが、香港・マカオがその世界最高の舞台であるとは客観的に思えない。また、いくら向こう見ずな性格といっても、頭がよく、とくに冷静さを失っているわけでもない43歳のエレノアが熟慮の末に行なった決断とはとても思えない。いささかリアリティに乏しいご都合主義と言えないだろうか。

Photo by Lauri Silvennoinen, original ParkerStarS - Highcliff, Hong Kong Island, Hong Kong (2007) / CC BY2.5
Photo by Lauri Silvennoinen, original ParkerStarS – Highcliff, Hong Kong Island, Hong Kong (2007) / CC BY2.5

一方的な批判はフェアじゃないので、この部分に関する作者コナリーのコメントを確認しておきたい。古沢嘉通氏が「ナイン・ドラゴンズ(Nine Dragons)」の解説の中で紹介している一文からの引用である。「暗く聖なる夜」のラスト以降、「その後の歳月といくつもの物語のなかで、ハリーと娘の関係は、一度も前面に出てこなかった。なぜならそこを探求する用意がわたし(コナリー)にはまだできていなかったからだ。また、彼女をもう少し成長させ、ハリーと(そして読者と)きちんとした意思疎通ができる人物にならせてから、ハリーの脆弱性(もろさ)を追求する物語を書きたかった。それでマデリンと彼女の母親、エレノア・ウィッシュを香港に引っ越させた。父と娘の物語を書く用意が整ったときに、ハリーを勝手のわからない場所で右往左往させるよう、母と娘を外国の地に置いておきたかった」

さて、香港でエレノアとマディは当初、九龍のホテル(Inter-Continental Hong Kong)に滞在した後、カジノが支払うハイクリフ(Highcliff)の居住区に移って暮らした。彼女は自分の貯金を温存し、カジノの金を賭けて歩合を稼いだ。ポーカーを遊びにやって来る多くのアジア人男性が、白人女性との対戦を歓迎したので、カジノにとっても彼女は収益をもたらす貴重な資産となった。そんなエレノアには新たな出会いもあり、カジノでセキュリティを担当するサン・イー(Sun Yee)が彼女の守護者、そして個人的なパートナーになっていく。

このあとの数年間について、エレノア母娘の暮らしぶりは、どの作品にも描かれていないので勝手に想像するしかないが、少なくとも、大きな事件や事故に遭遇するようなことは無かったであろう。このころの香港は、1997年の返還以来、まだ一国二制度が機能することを信じる人々が多数派であり、反政庁デモや反中デモといったことが起こるのはもう少し先のことである。

そして、2009年9月、エレノアとマディ、そしてボッシュを巻き込む大事件が起こる。母娘が香港に移り住んでから6年が経っていた。エレノアは49歳、娘のマディはたぶん10歳になっている。エレノアはLAのボッシュからの電話で、誘拐されたマディの映像がかれの携帯電話に届いたことを知る。彼女は、ボッシュが原因となって娘を危険にさらした、というようにかれを責めるが、ボッシュにとってフェアな言い方ではなかっただろう。しかし、母親が必死になるのも無理はない。(ナイン・ドラゴンズ

View from Victoria Peak: Photo by Georgio - Skyline of Hong Kong (2005) / CC BY2.0
View from Victoria Peak: Photo by Georgio – Skyline of Hong Kong (2005) / CC BY2.0

翌朝早く、エレノアとサン・イーは空港でボッシュと合流したあと、ヴィクトリア・ピーク(Victoria Peak)に向かい、マディが捕えられていると思われる付近を三角測量する。その後、ワンチャイ(Wan Chai, 湾仔)でボッシュが必要としている銃を調達し、かれの携帯電話の映像から識別された地点付近の建物を探す。マディを救出するため急造チームが与えられた時間は、僅かしか残されていなかった。

The front of Chungking Mansions
The front of Chungking Mansions

エレノアとボッシュは重慶大厦(Chungking Mansions)に捜索を絞り、15階のそれと覚しき部屋に向かうが、そこには何もなかった。かれらが立ち去ろうとしたとき、正体不明の武装した2人の男が近づいてきて撃ち合いとなり、エレノアは敵の銃弾に斃れてしまう。コナリーは、それから後につづく父娘の物語を書きたいために、母親を殺してしまった。シリーズを通して「運命の女性」という一種の賛辞が与えられていたヒロインの最期としては、なんとも不公平で、無残としか言いようがない。エレノア・ウィッシュの生涯は49歳で突然、幕を閉じたのだった。

エレノアの遺品のなかには、彼女の兄マイケル(マイクル)が若くして非業の死を遂げる直前に、妹に宛てた一通の手紙があったはずだ(「ナイトホークス」を参照)。その手紙の冒頭の呼びかけは「エリーへ(Ellie,)」であった。ボッシュは、彼女をずっとエレノアと呼び、一度もエリーとは呼んでいなかったと思う。彼女がボッシュにそう呼ばせなかったのか、今となっては、本人に確かめることはできない。

エレノア・ウィッシュ /完

ナイン・ドラゴンズ(上) (講談社文庫)ナイン・ドラゴンズ(下) (講談社文庫)

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投稿者: heartbeat

管理人の"Heartbeat"(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代半ば。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。