ハリー・ボッシュは「独りきりで生きる男」だが、その一方で、独りでは達成できない使命を自ら定めるという矛盾を抱えている。ボッシュが使命を全うするには、誰かがかれの足りない部分を補ってやる必要がある。具体的には、ボッシュが事件を解決に導く過程で、ときに決定的な援助を与えることのできるパートナーが必要となる。そこで、コナリーは、シリーズを通してその役割のかなり大きな部分を、FBI捜査官のレイチェル・ウォリング(Rachel Walling)に負わせた。
レイチェルの人物像は、しかし、ホームズを助けるワトソンのごとく安定した精神構造の持ち主とはいえず、まして陰で主人公を支える控えめな女房役といったイメージでは、さらさらない。彼女は、もし変人の度合を測るモノサシというものがあるならば、むしろボッシュに近い、少数の個性的な性格もしくは行動グループに入るのではないだろうか。
断定はできないが、レイチェルにはボッシュと同じような、あるいはもっと深刻かもしれないトラウマの存在する可能性が高い。彼女がまだ子供のとき母親が家を出ていき、それから彼女は主に、ボルチモアの警官だった父親に育てられた。父親は彼女に性的虐待を行なっていたのかも知れないのだが、彼女はそれについて話すことを拒否した。その父親は、彼女が10代のときに自宅での発砲事件によって死んだ。父親の死は自殺と認定されたものの、多くの疑問が残されたままだった。
レイチェルはまた、結果的にはFBI職員をながく続けているが、組織内部の秩序をときおり平気で無視するようなことがあり、そのために左遷されたり、解雇の危機に直面したりしている。彼女のそのような一匹狼的な側面は、ボッシュと瓜ふたつとまで言えないにせよ、非常によく似ている。そのため、性格的に補い合うといった関係にはならず、たとえば彼女が、ボッシュの不得意な対人関係において潤滑油のような役割を果たすといった可能性は少ないと思われる。
そうすると、彼女は何をもってボッシュを援けることができるか。それは、基本的に、彼女がFBIで磨き上げた何か特別な能力ということになるであろう。彼女はジョージタウン大学で心理学を専攻し、最初のうち外交官になりたかったようだが、カレッジ修了後に早々とFBIに勧誘され、入局した。ニューヨークのオフィスで働く間に、法律の学位を得るためコロンビア大学の夜間クラスに出席した。このあたりは平凡な成り行きだ。
その後、レイチェルは、バージニア州クォンティコの行動科学課(BSU; the Behavioral Science Unit)に配属された。BSUは1974年にFBIの訓練部門の中につくられ、1984年から94年まで、実際にはFBIアカデミーの訓練生を対象とする教育機関であり、実働部隊ではなかった。トマス・ハリスの1988年の作品「羊たちの沈黙」のクラリス・スターリングはまさにそこの訓練生という設定であった。1994年の組織再編でBSUの名称は消え、ISU(the Investigative Support Unit)となっているはずなので、レイチェルの配属はそれ以前のことと推察できる。
さらにその後、数次にわたる再編を経て、近年はNCAVC(the National Center for Analysis of Violent Crime;全国暴力犯罪分析センター)の行動分析ユニット(BAU;the Behavioral Analysis Unit)として存在している。BAUは2016年現在、BAU-1からBAU-5まで5つのユニットで構成されていることがFBIの公式サイトで確認できるが、テレビドラマや各所においては、旧来のBSU(行動科学課と訳されることが多かった)と混同されたり、架空の組織に変貌している。
現実のNCAVC、およびBAUは、VICAPと呼ばれるデータベースと「プロファイリング」を含む科学捜査を駆使する専門家集団である。レイチェル・ウォリング、そしてテリー・マッケイレブはその一員であり、本シリーズはテレビドラマの「クリミナル・マインド(Criminal Minds)」などと比較して、より現実に近い設定がなされていると考えたい。レイチェルは、BSUないしBAUでさまざまな専門的訓練や経験を積みながら特別捜査官となった。創作が大部分を占めるとはいえ、本シリーズでは彼女やマッケイレブの活躍ぶりを通して、BAUの専門的特徴がよく描かれていると思う。
なお、VICAP(the Violent Criminal Apprehension Program; 凶悪犯逮捕プログラム)とは、凶悪な殺人事件、とくに性的暴行、誘拐や行方不明者を伴うもの、動機不明のもの、連続殺人が疑われるものなどに関する情報を追跡し、比較・照合できるように設計されたデータベースであり、全国の法執行機関に広く活用されている。レイチェルはこのシステムの使い方を習熟していることで、クォンティコを離れてからも、ボッシュらを大いに助けることになる。
ところで、やや蛇足になるが、一般的にテレビや映画などで見られる「プロファイラ」と呼ばれる職制やポジションは、現実のFBIには存在しない。プロファイリングは、FBI捜査官の広い仕事の一部分に過ぎないのだが、「FBI心理分析官(Whoever Fights Monsters)」を書いたロバート・K・レスラーが自らを「プロファイラ(邦訳では心理分析官)」と称したことなどから、言葉がひとり歩きしてしまったようだ。