ボッシュ・シリーズと音楽 その18

前回は、作者コナリーが「ブラックボックス (The Black Box)」の中で、ボッシュと娘マディ(マデリン)の家庭内エピソードを描きながら、この父娘の特別な絆を浮き上がらせるモチーフとして、アート・ペッパーの音楽を巧みに使っていることをとりあげた。ペッパーこそがそのように本作における音楽の主題ではあるが、コナリーは今回それに加えて、比較的地味と言えるような中堅クラスのジャズ・ミュージシャンを(この表現が当たっているかどうか自信はないが)、バーゲンセールのごとく次々登場させては”PR”しているようにも見えるので、ぜひ触れておきたいと思う。

ブラックボックス(下) (講談社文庫)ブラックボックス(上) (講談社文庫)”PR”に見えると言った理由は、かれらの名前や音楽が、本作のストーリーやプロットとほとんど無関係なかたちで露出しているような感じ、また、作品への味付けとしては念の入れ過ぎのような感じから来ている。作者コナリーがかれらのジャズを心から愛しており、ぜひとも読者に紹介したいと思ったからなのか、または自分自身のジャズに関する蘊蓄を述べたかったのか、あるいは、やや過剰と承知しつつファン・サービスのつもりで書き加えたものなのか、いずれにせよ、コナリーの意図として「お遊び」の域を超えるものではないと思われる。

具体的には、警察内部でジャズ好きとして有名なボッシュが、同じくジャズ好きの同僚の一人とゲーム形式でそれぞれの新たな仕込み(蘊蓄)を自慢し合うという、文字通り「お遊び」の場面として描かれている。二人の内のどちらかが、「相手はきっとまだ知らない」と推理するジャズ・ミュージシャンの名前を挙げ、相手がもし本当に知らなければ「ほーら、俺の勝ちだ」という”オタク同士のゲーム”が進行する。さらに読者によっては、そうした場面に立ち会って自分もゲームに参加している気分になり、読者自身も「相当のジャズ・オタクだな」と感じられる仕掛けになっている。これは、したがって、コナリーの読者に対する「お遊び」でもあるのだ。

「ダニー・グリセット」
ボッシュはその名前に聞き覚えはあったものの、はっきりさせるのに努力が要った。これはボッシュとホロドナクがよくやっているゲームだった。
「ピアノだ」ようやくボッシュは言った。「卜ム・ハレルのグループで演奏しているんじゃなかったっけ?地元のプレイヤーのひとりだ」
ボッシュは自分を誇らしく思った。
「正しくもあり、間違ってもいる。出身はここだが、ずっとニューヨークにいるんだ。しばらく、そっちを拠点にしている。リリーを訪ねてニューヨークにいったとき、〈ジャズ・スタンダード〉で、ハレルといっしょに弾いているのを見た」

Formダニー・グリセット(Danny Grissett)は1975年生まれで、ボッシュより25歳も若いミュージシャンだが、ボッシュの同僚が指摘した通り、2005年からトランぺッターの卜ム・ハレル(こちらはボッシュより4歳年上)が率いる”Tom Harrell Quintet”の正式メンバーとなっている。ボッシュは近頃、「自分のジャズの視野を広げようとし、若い年代のプレイヤーにいくことで娘に興味を持ってもらおうと」努力しており、その甲斐あって同僚の投げた第一球をどうにか打ち返すことができた。しかし、このゲームは、相手の方がつねに一枚も二枚も上手のようである。―― Danny Grissett, ” Let’s Face the Music and Dance” in “Form” (CD)

「グレース・ケリー」ボッシュは言った。「モナコ公妃のほうじゃない」
ホロドナクはボッシュの投げかけてきた挑戦の簡単さに笑い声を上げた。
「公妃じゃない、若いほうのグレースだ。若いアルトサックスのセンセーション。レコードではフィル・ウッズやリー・コニッツとチームを組んでいる。コニッツと組んだやつのほうがいいと思うな。次は?」
ボッシュにはもう一度挑むのは、絶望的に思えた。

Gracefullee韓国系で早熟のスター、グレース・ケリー(Grace Kelly)は1992年生まれである。ボッシュから見れば娘マディよりだいぶ年上ではあるものの同じような世代であり、マディにジャズへの関心を向けさせようと思えば、おすすめミュージシャンの一人と言えないこともない。ボッシュの同僚が言及した”GRACEfulLEE”(2008年)はケリー16歳のアルバムで、高い評価と話題性によりご存知の方も多いだろう。 さて、同僚とのゲームはまだ続いており、ボッシュは一方的な敗色を認めつつも、最後の挑戦を試みる。 ―― Grace Kelly with Lee Konitz, “GRACEfulLEE”(CD)

「わかった、もう一度だな。どう、だろう・・・ゲイリー・スマルヤンは?」
「『隠された財宝』」ホロドナクはすぐさま解答し、ボッシュが考えていたまさにそのアルバムを挙げた。「スマルヤンがバリトンサックスを演奏し、ベースと、ドラムがリズムを刻むだけだ。いいアルバムだ、ハリー、だけど、おれの勝ちだな」
「ああ、いつかは負かしてやる」

Hidden Treasuresゲイリー・スマルヤン(Gary Smulyan)は1956年生まれで、コナリーと同年齢である。バリトンサックス奏者として長い間、名声を得つづけており、2006年からは、マサチューセッツ州サウスハドレーのバークシャーヒルズ音楽アカデミー(the Berkshire Hills Music Academy)で芸術監督を務めている。 ―― Gary Smulyan, “Hidden Treasures”(CD)

Rub & Spare Changeボッシュがその後、同僚とのまじめな仕事およびゲームの両方ともを無事に終えたつもりでいると、その別れ際に、同僚から挨拶代わりの難問が投げかけられる。「マイクル・フォーマンエック」というミュージシャンの名前を挙げられても、ボッシュには答える元気がもはやなく「両手を上げて降参の仕草を」示しながらその場を立ち去るほかなかったのだが、そのボッシュの背中に向けて、ジャズ・オタク度でボッシュに優る同僚からダメ押しの助言が贈られる。 ―― Michael Formanek, ” The Rub and Spare Change”(CD)

Photo by Hreinn Gudlaugsson – Michael Formanek (2014) /CC BY-SA 4.0

このゲームの最後の方で紹介されているゲイリー・スマルヤンと、マイクル・フォーマンエック(Michael Formanek)は、ともに1950年代後半の生まれである。この二人はボッシュより年下だが、作者コナリーにとっては同世代であり、似たような渋い雰囲気のかれらにコナリーがどことなく親近感を抱いていても不思議はない。なお、余談になるが、フォーマンエックはベーシストとして、アートペッパーの「サンフランシスコ・サンバ」(1977年収録)というアルバムにも参加している。 ―― Art Pepper, Michael Formanek, “San Francisco Samba: Live at Keystone Korner”(CD)

「・・・あんたは自分の守備範囲を広げるべきだぞ、ハリー。聴く価値がある人間はみんな死んでる訳じゃない・・・」

San Francisco Samba: Live at Keystone Korner初めから勝負の行方はわかっていた気もするが、ボッシュの負けが潔く確定し、読者としてはかえって安堵したかも知れない。ハリー・ボッシュが ”ジャズ・オタク”としてどれほど進化してもあまり意味はないであろうし、ボッシュには何よりペッパーやフランク・モーガンという拠り所を頑なに守るボッシュでいて欲しい、と思うからである。ただしその一方、このような「お遊び」的要素はコナリー作品の一つの特徴とも言えるので、シリーズの世界観を損なうことのない範囲で、適度に読者を楽しませる分には許されていいであろう、とも筆者は考えている。

ボッシュ・シリーズと音楽 その19 につづく。

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投稿者: heartbeat

管理人の”Heartbeat”(=心拍という意味)です。私の心臓はときおり3連打したり、ちょっと休んだりする不整脈です。60代前半。夫婦ふたり暮らし。ストレスの多かった長年の会社勤めをやめ、自由業の身。今まで「趣味は読書」といい続けてきた延長線で、現在・未来の「同好の士」に向けたサイトづくりを思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。