ハリー・ボッシュは1968年、18歳のときにベトナムに従軍し、そのおよそ2年後に除隊してロサンジェルスに戻ってくる。ボッシュは、生い立ちのトラウマに加えて、苛酷な戦争体験の記憶に苛まれるようになっていた。
1970年夏、かれの思いは、自分自身の失われたアイデンティティに向かっていく。それまで別段、気にもしていなかった自分の出生について調べ始め、やがてある人物が実の父親であるとの確証に行きつくのである。これらの経緯は「ブラックアイス(The Black Ice)」の中で明らかにされている。
その人物とは一流の刑事弁護士、J・マイクル・ハラー(J. Michael Haller)であった。ボッシュはハラーに会うためビバリーヒルズの邸宅を訪れる。ハラーは癌で死期間近の老人であり、ボッシュにこう述べる。「おまえはもしかしたらハリー・ハラーになっていたかもしれないな」
われわれは、ここで重大なことに気づく。もしも、20年前に、誕生したばかりのボッシュを取り巻く世界が正統なる秩序に保たれていたならば、かれが本来名乗るべき名前は、ハリー・ハラー(Harry Haller)であったかも知れないのである。母の命名であるヒエロニムス=ハリーと、父の姓を合わせれば。
「彼が本来名乗るべきはずであった名前が、へルマン・へッセの『荒野のおおかみ(Der Steppenwolf)』の主人公と同じ名前(ハリー・ハラー;Harry Haller)であったというのには少なからず衝撃を受けた。この人物のことはコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の中でもことさら大きく取り上げられているが、彼の生き方はまさしく”アウトサイダー”そのものであったのだ。自己を誤魔化すことなく、市民的なもの、組織的なものと妥協して生きることもない、強烈なる存在感を持った人物だったのである」(関口苑生氏; 「ブラックアイス」解説より)
「ハリー・ボッシュ」の裏側には、「ハリー・ハラー」というもう一つの重大な符号が隠されていた。ハリー・ハラーという名辞は、苦悩するアウトサイダーの魂をもつ「荒野のおおかみ」を象徴するが、その魂がいまやハリー・ボッシュ(すなわち、「ラスト・コヨーテ(The Last Coyote)」)に乗り移っていることを、われわれは知ったのである。
なお、J・マイクル・ハラーは1970年に息子との面会を果たしたあと、まもなく死去した。
へルマン・へッセの「荒野のおおかみ」
「荒野のおおかみ(Der Steppenwolf)」は、詩人ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)、50歳の記念的作品である。主人公ハリー・ハラーは、市民的な平凡な毎日を繰り返し過ごす生活に対して疑問を持っていた。そして、彼は、そのような生活から逃げようとする孤独なアウトサイダーだった。市民的な生活に馴染もうとする自分と、その生活を破壊しようとするおおかみ的な自分。二つの魂を持つハリーは、自殺を一つの逃げ道として捉え、それによって、かろうじて精神の均衡を保ち、自分のことを「荒野のおおかみ」だと考えていた。
コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」
「アウトサイダー(The Outsider)」は、コリン・ウィルソン(Colin Wilson)、25歳の処女作。H.G.ウェルズ、カミュ、ヘミングウェイ、サルトル、ニーチェ、ゴッホ、ニジンスキー、アラビアのロレンス、ドストエフスキー、ブレイク、ジョージ・フォックス、ラーマクリシュナ、グルジエフの登場人物など、自らの意思で社会秩序の外側に身を置く「アウトサイダー」たちを通して、現代人特有の病とその脱出法を探求し、全世界に衝撃を与えた名著である。